ネコのヒトビト

ネコにまつわるヒトビトについてのお話等

玉川さんたちが言っていたこと

2022-04-25 03:14:51 | 思ったこと
最初、彼は、
全員検査していたら、陽性者が多くなりすぎて対処できなくなる。
PCRは偽陽性が出過ぎるので、
と言っていました。
そして、
はやくも全員検査している韓国を馬鹿にしていました
いわんこっちゃないという感じで。


いつの頃から、か
みなさん変わりましたね

どちらにせよあの番組を見なくなったので
事実は、それ以上わかりません。

最初はみんな「わかって」いました。
マスクは意味がないってことを
感染症の専門家は言っていた。
岩田先生だとか、忽那先生も
岩田先生は、普通の風邪とかわらない、インフルエンザと変わらない
くらいのことを言っていました。
中国の映像をみていた私たちは、それは嘘だろうと、逆に疑いました。
でも、あの中国の映像も、おそらくは。

だから、いまの上海も本当なのだか。
だって2500万人の都市を封鎖
ほんとうにしているのでしょうか?
だって大阪でさえ府民全員で800万人ですよ。

いくらあの国だとしても、本当なのだか疑わしい。
2500万人の人を閉じ込めることが果たしてできますか?
それを行う 労力はいかほど?

こんな情報で踊らされている。


つじつまのあわないことに従わせることにこそ、意味があるのでしょう。
服従訓練なのだということ。

それをだれも、なにも言えないのでしょう。

思想教育

2022-04-25 02:47:17 | 思ったこと
ある政党に関係深いところにいた頃、
「思想教育には気をつけろ」と言われていた
もちろん、そんな偏見がないからこそ、その
「関係深いところ」に所属した
若い頃の「私」

人を、コントロールしようという意図が根底にある場合を
見分ける。
「それ」に、敏感になったのはなぜなのかわからない。

自分がどうしようもない 強固な、頑固さを持っており、
容易に誰かの言うことに「同意」することができず、
不器用な立ち回りしかできない性質で
「同意」できない時に受ける「仕打ち」を体験してきたから
なのかもしれない。

いい人のふりをして、
自分の味方を作ることをもとめて、
いろんな人が、誰かを「自分の意見と同意見であって欲しい」と
コントロールを試みる。
今の時代、というか、多くの時代、
人と人がお付き合いする、どこかの集団に属す、ということは
そう言うことは当たり前のことで、
表面上でも なんでも、とりあえずはあわせておく、
あるいは自分の意見を「明確に もたない」という選択を
することが「賢い」と思っていたり
そこまでも思っていなくて、ただ
意見をもたない習慣になっていることさえ
気づかないひともいるかもしれない。

なぜ、自分がここまでこだわるようになったのか
わからない。


思想をあやつるということは、それだけ
罪深いことなのだ、と
どこか、魂に刻まれた理由があるのかもしれない。

ジャーナリストになるような道を歩むつもりもないが
ジャーナリストでありたいという想いをなぜか抱いていた

戦争を防ぎたいという気持ちを、
平和でいられる日常を、維持し続けたいという想いを
どこか心の奥底に強固に持ち続けてきたのは、
もしかしたら、
生まれる前に、
なにかがあったのかもしれない。

今になって、
新聞も、テレビも、あらゆる教育機関も、
また戦前の間違えを犯すことにまったく躊躇しないことに
驚いている。

巨大な教育機関となっている日本全体の「しくみ」のたくみさ
隣組はなくなっても、それと同じようなしばりをまぬがれない

こうして、だれかの顔色をうかがって、
人や、その国を きめつけて喋る人たちがいて、
まるで、その国の人たちが「間違っている」と全員気づかないのだ、と
上から目線で、
一番気づかないでいる。
そんな自分たちの姿に向き合うこともない。

その向こうで、まいにち、若い命が、罪もない人たちが、

まるでみせしめのように殺されている。
それも、やはり誰かを「教育するために」
あるいは
誰かが「教育されてた結果」

一人の命だ。
誰かの子供であり、誰かの家族であり、
一人の人生が、無残に

思想をコントロールすること、
人の自由な心を、どこかに縛りつけるような
誰かを殺すように、仕向けるような。
それは誰がやるんだ。

それは、誰が、なんの意図で、やるのだ。


いのちのたべかた

2022-04-25 02:31:36 | 思ったこと
むかし、
玄米菜食をしていた頃
「いのちのたべかた」という映画を見に行った
今も目に焼き付いているのは、
ベルトコンベアのようなものに運ばれて、自動的に腹を割かれる豚の
正面から見た姿だ

あと、
屠殺場に向かう通路で、それと気づいた牛がもがく姿だ。
どこへも逃げ場がない通路で元の場所に戻ろうとする。
それでも、どこへも逃げられない。

そして、
もう一つ焼き付いているのは

そうした食肉工場や、
食物を作る職場で働いている人たちの虚無的な表情である。

作られる小麦
収穫される作物
すべてが、なにか機械的で、無残な、無表情で

動物を直接殺す映像だけが怖いのではなく、
その大量に作られる作物の風景も、なんともいえず殺伐としていて、
深い恐怖感を感じた。

人は、生きるために食べている
だけれども、
こうした無表情に刈られる作物や
無残に殺され続ける生き物を食べることについて
いちどでも、考える機会
生涯、 どれくらいの人たちが?その機会に出会うだろう。


今、子供をうむ時
PCR検査陽性だと 自動的に「帝王切開」という病院が多いのだそう。
例の注射後遺症の人たちを門前払いし、「そんな副作用はない」「捏造だ」と言う医師たちが多いのですから、

それぐらい「どうてことない」のかもしれません。


この2年間、あまりにもいろいろなことがあらわになりすぎて、
神経を病みそうです。でも、これが現実です。

私たちは、親 兄弟が あるいは 親戚が 病気になっても、会いもできないし、
場合によっては火葬されてから会うのでしょう。

もう、すでに家畜と同じ扱いなのかもしれません。
そして、そんな私たちの痛みなど、

だれも、自分のこととして感じる能力を 失っているのかもしれません。