ネコのヒトビト

ネコにまつわるヒトビトについてのお話等

傷ついている?君だけではないよ!

2022-04-04 16:44:08 | 思ったこと
うそ ばかりなり

まじめくさって

うそ ばかりなり

もっともらしく

うそ ばかりなり

個人的に意図があろうとなかろうと
これは、人をいたぶる
これは、暴力
これは、殺人行為。


でも、
なにか 改善するというチャンネルをもたない

みるたびに、 傷ついている。


傷ついている?
きにしないでいられる?

傷ついているのは、ワタシだけでなく
傷ついているのは、あなただけでもない筈

これは、情報という暴力
これは、情報という、暴力

魔力を使っている

魔力には魔力で対応を

どんな魔力?

好きなことをやり、
ウキウキとしていよう。

情報汚染から 離れる。

傷ついているのは、君だけじゃないよ

呼び捨てにして、匿名で批判するなら直接実名で意見を言うほうがかっこいい

2022-04-04 10:41:58 | 思ったこと
医者が医者を非難する
医者が医者を、呼び捨てにして、詐欺師だとか、勉強不足だとかやりこめる
それで、フォロワーをあつめて いいねをあつめて
自分は名前を出さず
名前が出ている人を
呼び捨てにして その人の人格を否定する
なんて思いやりのない行為だと思う
意見を言うのであれば、
実名を書いた手紙でもって
あるいはメールでもって
直接言えばいいのに。
そうした方が、思いやりもあるし、誠実だと思うし、筋が通っていると思う

twitterというのは便利なツールだなあ、と
思う反面
どうでもいいような感情をやたらと投げつけて
波紋を広げる場にもなっていると思う
刺激的な言葉が人の注目を集める
正しいか正しくないか
というのは
見る角度が違えば全然逆転してしまう
同じような意見の人が集まるように
表示の順番はかわるし、そういう風に仕組まれているから
人々は自分の意見に賛同してくれている人がたくさんいると
勘違い(する  あるいは 勘違いしたがる)
目立つか、賛同が得られるかということよりも

思いやりとか
心遣いだとか、
そういうのが、本来 私たちが大切にしたいことなのでは
なかろうか。

美徳、という言葉があるけれど、

いつから、だれかれ構わず なにかをしない人に命令口調で言葉を投げつけたり
人を呼び捨てにする権利を自分が持っていると
思いあがってしまったんだろう。

いつ、そんなに偉くなってしまったんだろう?

自戒も込めて。

人を呼び捨てにして、やり込める

2022-04-04 10:29:11 | 思ったこと
twitterは普段やらないのだけど、
時々、非常に口汚くののしるような言葉だったり
相手を呼び捨てにしたり
バカにしたりする発言があって
そういうのを見ると
傷つきません?

言葉には主語がついているけど、
言葉を見る私たちの「脳」は、
主語がない状態でその言葉に触れ、記憶するのだと
誰かが言っていた
そんなことがあるのかと思うけれど
誰かを「ころしてやる」とか「しねばいい」とか
そういう言葉は、
見て気持ちがいい言葉ではないし、
その言葉を心の中で反芻すれば
辛い気持ちになる。
だれに向けられたことであっても。

誰かであればいいということはない
相手が悪ければ、死ねばいいとはならない
極悪な犯罪者であっても、それだから死ねばいいとつぶやいていいかというと
どうなんだろう。
(もちろん犯罪の被害者になった人が感情的に犯罪者を死ねばいいと思うことは無理もないことです)

ごく悪な人は悪いけれど、
裁くのは常に神様であったり
その人自身であったりと思う。

極悪な人に、被害にあうのは嫌だけれど
被害にあっていない立場の自分が
それだから相手は死ぬべきだと裁く権利があるかというと
よくわからない。
どんな背景があるのか知らないから。

それよりも「しねばいい」とか「死ね」とか言ってる人の
心に傷ができやしないかと心配する。
言葉は、発した人の心に一番残るからだ。

強い言葉を使う人は、かならず、その人の心にその強い言葉が
作用する

逆に優しい言葉や、思いやりの言葉も、
その人に作用すると思う。

得になるということだし
徳にもなるとおもうのだ。

人をやりこめることは、自分にとっても
自分を傷つけることに繋がると思う

そういうことを知っていれば
よのなかのせんそうは すこしへるんじゃないかと
妄想している。

脊髄反射的 善悪判断

2022-04-04 09:49:48 | 思ったこと
いきなり怒られると
そうじゃない!と反発してしまう。
いきなり、文句言われると
そうじゃない!と反論してしまう。
そんな経験ありませんか。

老人になった親が、勘違いして怒り出すことって
ありませんか?
私の場合は、しょっちゅうでしたよ。
勘違いして怒り、時には実力行使に来る親に対して
反論すると、倍になって返ってくる。。
そんなこといっぱいありました。
反論することが相手を傷つけるんだなあ、
たとえ正しくても、
それを言ったところで
相手を傷つけるのであれば、
どうやったら、脊髄反射的に反発しないように
自分を訓練できるだろうかと悩んだこともありました。
たとえ、相手の主張が間違っていようと、
すぐさまその反論をするのではなく、
時には相手の気持ちを思いやって
相手に正論(それも自分の正論)を浴びせかけるのではなく、
善悪については保留して対応できるくらいの
余裕というか度量が必要と
何度思ったかしれない。

正しいか正しくないか、
間違っているか間違っていないか、という
論理的なことが、
時には一番重要なことではない場合もある

たとえ 正しいと自分が思っていても
それを言うことでもって、相手を深く傷つけることは
お互いに何の得にもならないということも
時にはある
特に感情的にどちらかがなっている時は
理詰で説き伏せたところで、
負の感情だけがあとにも残ってしまうことがある
善悪がはっきりしたところで
自分が、あるいは相手が判断のところで
勝ち負けが決まったところで
なにも得にならないという
理論では勝ったけど、
長い目でみるとそれは最重要ではなかった
という
ことも
時にはある

自分の善悪を見る上での優位性、見識の高さを誇ったところで

それが、だから、なんなの、と

相手を思いやることがまず前提にないと
もちろん
自分の感情や心を守ることも大事な要素ではあるけれども

もっと大きな、視点にたって、

物事を、判断することが大事なんだなあ、
いつも思う。