竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

ひとりよがりの回想

2016-12-22 16:09:41 | 日記

『ひとりながむ』(2) 

    ひとりよがりの回想 

 前回のこのブログに、わたしは母校・出雲高校が創立100周年を迎える四年後に刊行されるはずの、正統な学校史の予告編として、60年も昔の個人的な高校生活史を「老人のエピソード記憶」として思いのままに綴ってみたいと書きこんだ。

 早速、その素材探しとして、昔の資料を投げ込んでおいたダンボール箱を漁っていると、私の高校1、2年の頃の自由日記帳が見つかった。

 この日記帳のことについては、これまで、私は全く忘れ果てていた。ひとあたり飛ばし読みをしてみて、もっと驚いた。以前、このブログの「漱石耕読」の中で、私は中学時代までは、威勢のいい女子生徒に圧倒されて小さくなっていたが、「高校入学の感想文」として書いた、漱石の『猫』真似の「諧謔と批評」が評判となり、その後「文芸部部長」に抜擢され、クラスのHR活動などをリードするような委員になった旨を記述したことがある。

 しかしながら、この日記帳には、そのような威勢のいい、積極的な行動の記述は、些かもない。HRでは、私より年上で、演劇の役者志望の生徒からいつも手厳しい反発を食らい、反論することもなく、彼を呪詛する文言ばかりを繰り返している。

 文芸部活動においても、才女で同級生の女生徒が、献身的に私をサポートしてくれたと思いこんでいたが、同人誌の出版費用にあてる広告集めなどで、彼女から、私の統率力のなさを厳しく責め立てられて、私もしばらく落ち込んでいたりしている。

 「エピソード記憶」などと言っても、人間の記憶は、歳月とともにすべて美化されて、自分に都合のいいように改変されたにモノに違いない。自分の若き日の生活史を記憶のままに記述すれば、他人の虚偽のプライバシーを創り上げるばかりか自分のアイデンティティーさえも怪しいものになってしまう。前回の私の記述は、まさに「唐突で軽薄な思いつき」であった。謹んでお詫びを申し上げ、撤回をお願いしたい。