竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

唐突、軽薄な思いつき

2016-12-17 15:19:27 | 日記

『ひとりながむ』(1) 

  唐突、軽薄な思いつき 

 この夏まで、わたしは『ひとりごつ』と称するブログを開設して、およそ週1回のペースで、書き込みを続けていたが、その後、いささか体調を崩して、不本意な休筆を続けていた。余生を「ひとり」で「おっちらと」「ながめながら」閑居の気味を味わいたいという思いからであった。

 ところが、生来、不器用で親しい友人も乏しいわたしは、たちまち退屈してしまい、老人性の認知症のきざしも見え始めた。このままでは困ったことになるやもしれぬ。いささか、わたしも不安になっていた。

 その矢先、一通の往復ハガキが届いた。私が高校教師駆け出しのころ、最初に担任をした連中からの「卒業50周年同窓会」の招待状であった。来春3月、盛大に開催したいとの由である。わたしは、二もなく、久方ぶり興奮した。思い起こせば、彼らを卒業生として送り出した春、私は結婚した。「来春は、『金婚式』にあたるが、如何?」と愚妻から責められていた。

 実は、以前私に「ブログなるもの」の開設を持ちかけたのも彼らの一派であった。この夏は、わが母校の甲子園初出場に興奮させられたが、東京オリンピック開催の年に創立1000周年を迎えるという。やがて、正統な100年史も刊行されるであろう。「その前宣伝として、この際、出雲高校に係る個人的な生活史を書き綴ってみるのもオツなものですなあ。」と、こうした集まりの常任幹事のH君がそそのかす。

 そう言えば、いつぞやの朝日新聞の「天声人語」で、「個人的なエピソードの記憶こそが、その人の人格の芯である」と書いており、全くその通りだと共感したことがあった。

 同窓会の出席は当然のこととして、たちまち、「その趣旨でわたしのブログを再開するのも悪くないな」という気になってきた。わたしは、出雲高校の古い卒業生であり、旧職員であり、家族のほとんどが「久徴会員」であり、学校のすぐ近くで70年住まいしてきた。学校に係る史料もダンボール一杯にしまい込んである。この際、後先考えずに書きこんでみよう。そういう気になってしまった。他人のプライバシーを尊重し、自分の自慢話は控えめにして、ともかく再出発してみよう。私に残された時間は、もう長くはあるまいから。