竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

史上最強の帝王

2012-04-13 07:55:43 | 日記
 日本人のこころの歌 (19)
    ―私家版・古代和歌文学史

  史上最強の帝王(新古今集一)

 後鳥羽上皇は、日本文学史上最強の帝王として、濃密で昂揚した和歌のコミュニティーを形成された。1180年、高倉天皇の第四皇子として誕生。源氏の逆襲により平家一門が、安徳天皇とともに都落ちした後、後白河院の意向により急遽四歳で即位させられた。前例のない二帝並立であった。
後鳥羽院は天皇在位15年、19歳で譲位して上皇となり、3代・23年に亘り「治天の君」として院政を統括し、宮廷貴族の政治・文化の中心となられた。
 1201年、仙洞御所に、「和歌所」を開設して、太政大臣や天台座主など、上流貴族・11人(その後、地下人の秀能、長明など4人を追加)を「寄人」(よりうど)に指名された。
定家、家隆など「新派歌人」の若手を積極的に登用し、頻繁に百首歌をお召しになり、歌会を主催された院は、ご自身の詠歌の技量もたちまち上達された。間髪を入れず、寄人の中の6人の撰者に、勅撰集撰進の宣旨をくだされた。そして院がその編集のプロモーターとなられた。
 1205年、「新古今集」が一応完成したところで、宮中で竟宴が催された。こうした宮中あげての祝宴は、「日本紀」などの国史編纂の折に限られていたが、第八勅撰集「新古今集」は、後鳥羽院の親撰の歌集として、特に思い入れが深かった。

 1221年鎌倉幕府の内紛に乗じて、後鳥羽上皇は、北条義時追討の宣旨を発せられた。しかし、これは全く戦略のない倒幕計画であり、京方の官軍は、「矢を発するにも及ばず」、あっけなく敗走した。「承久の乱」である。
 後鳥羽上皇は、出家後隠岐に配流され、1239年にかの地で崩御された。院は、配流後も「新古今集」への執着を捨てきれず、全体の配列はそのままにして、和歌四百首を削除した「隠岐本新古今集」を完成された。
 ほととぎす 雲居のよそに 過ぎぬなり 晴れぬ思ひの さみだれのころ
 後鳥羽院は、竟宴後も引き続きくり返し「切り継ぎ」(入集歌の削除や追加)をなされたが、この歌も後で追加された歌である。承久の乱を引き起こす前の思い乱れた心情が伺える。