丼に入っていた鍋焼きうどん・追悼高橋絹代さん

2022-10-07 00:58:57 | 日記・エッセイ・コラム
今晩も眠れないような・・・
数日前、高橋絹代の娘です、と電話をいただいた
そのとき、高橋さんのご逝去を聞いた
えッ、なぜ、そんな言葉しか出なかった
その日以来寝つきが悪い

つい最近に高橋絹代さんに拙文を送ったばかりだ
主のいないところへ
高橋さんが送ってくれた詩誌「くれっしえんど」のページには
いつも小さな栞がはさまれていた
いつか、また会いましょうね

もう会えなくなってしまいましたね、高橋さん
だから天国へ
相変わらずのぼくの拙文を送りますよ
どうか届きますように

丼に入っていた鍋焼きうどん――高橋絹代

〈母は私が五才の時亡くなったので/記憶はかすか/でも ありました/なべやきうどんです〉(「母の好物」より)どうだろう、このストレートですっきりしたひびきは。
ぼくは高橋さんを紀行詩人だと思っているが彼女も時代を大切に持ち歩いている詩人だ。〈この広場で無心に遊んでいた時代を/月のあかりが よみがえらせる〉(「夜の小公園」より)詩人の詩は紀行文的な文体である。その中に含まれるそれぞれの時代の素顔がエッセンスとして詩情をひろげている。
ボランティアで出した古着のコートへの想い、〈ピンクが好きなんだね〉(「コートの行方」より)と言ってくれた人は〈アフリカよりもっと もっと遠い所にいる〉ようだ。だからでもないだろう、「漂う」感覚で詩人が旅するのは。でも行く先々で事物の謂れに好奇心を示すのはやはり紀行詩人であるからだろう。
僕にとって忘れられない詩がある。使っている裁縫箱の片隅に入っている「姉ちゃんの針さし」は十四才で結核で亡くなった姉への苦い思い出をつづった手記であり〈姉の生きた たった一つの証〉に添える鎮魂歌でもあるのだろう。

**詩誌「くれっしえんど」より 高橋さんの詩です。
母の好物   
   
   母の命日が近い
   母の好物を仏前に供えようとした が
   母は私が五才の時亡くなったので
   記憶はかすか
   でも ありました
   なべやきうどんです
   仏前には向かないけど思い出した

   母と電車で街へ出た時
   必ず寄ったうどん屋さん
   電車通りに近い街の中に
   「おかめや」という看板
   木造の低い造りの古い麵屋
   いつも繁盛していた
   なべ焼きなのに出てくる時は丼に入っていて
   紅色の縁の蒲鉾 餅 麩などがのっていた
   
   いつの間にか私もうどん好きになったのは
   母と一緒におかめやに行ったからか
   母が着ていた
   らくだ色の角巻なども思い出す

雲見で

   海岸に沿って造られた
   崖と海に挟まれた
   その道は昭和三十二年に
   開かれたという
   今も雨が続くと
   落石注意の看板
   工事の途中の生々しさが残り
   恐る恐る通り過ぎる
   
   ひっそりと八十軒ばかりが
   漁業と農業で暮らしをたてていた
   伊豆半島の西の先の雲見
   何よりの道路の開通だった
   
   私を待っていてくれたのは
   九十才になる民宿のおばあさん
   太い梁のある母屋
   露天風呂もある
   「磐長姫」(イワナガヒメ)の床の間の掛け軸
   字は太く 大きい
   近くの雲見神社の宮司さんの書
   
   磐長姫は雲見の守護神
   富士山の木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)とは姉妹
   木花開耶姫は桜の精
   磐長姫は岩の精
   寿命長久の神様といわれている
   
   この家のおばあさんは
   若い頃この神社で修業を重ねたという
   突然 話の途中で
   小柄なおばあさんが私の体に手を回し
   抱いた それも強く
   おばあさんの力ではない
   何かがさせるのだと言った
   私を守って 力をつけてくれたようだ
   
   帰り 雨の中
   雲見浅間神社の大木の下の
   急な階段を昇り
   内宮にお参りした
   絶景が待っていたが
   雨雲で富士山は見えなかった
   たとえ
   富士山が見えても富士山を
   キレイと言ってはいけない
   富士山を誉めると大怪我をするという
   迷信があるそうだ


姉ちゃんの針さし

   裁縫箱の片すみに赤と黄のリボンを交叉に編んだ
   針さしが入っている
   もう色も褪せて
   布地もボロボロで
   中のさび止めの黒髪が見えている
   だけど捨てられない
   
   姉は私より六才上だった
   布(キレ)坊ちゃんという
   小さい人形に服を作って
   着せ替える遊びがあった
   今でいうリカちゃんのような
   
   ある日
   姉は残り布で人形の服を作ってくれた
   なのに
   私は「袖がない」「袖がない」と
   言ってしまった
   小さい人形の袖は
   中々手間のいる事なのに
   袖なしの服を見て
   心ない事を言った私
   
   姉は怒って
   ハサミでその服や 前に作った着物にまで
   ハサミを入れた
   あの時程
   びっくりした事はなかった
   私は唯々 右往 左往
   その後 切ったところを
   直してはくれたが
   姉の怒りようだけ ずしんと心に残った
   
   姉は一二才で喉頭結核になった
   八月の涼しくなる頃迄
   石狩川で泳いでいたのに
   その後 咳や微熱が続き
   結核と分かった
   
   成績が良かったので
   女学校に進めたのに
   受験は出来なかった
   他の友達が通学するのを
   窓から口惜しそうに見ていた
   
   そんなうっぷんが 溜まっていたのだろうか
   作ってくれた人形の服に
   ハサミを入れた姉の顔を
   忘れることはできない
   
   その後 一駅向こうの
   家から遠い療養所に入った姉
   薬もない 食料もない戦争末期
   三月半ば
   姉は療養所で亡くなった
   病気が病気だけに
   骨になって帰ってきた
   まだ十四才だった
   
   あんなにキレイだった針さし
   今 年を経て色褪せてしまったけれど
   姉の生きた たった一つの証のように
   私の裁縫箱に今もある

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3 コメント

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Unknown (長女)
2022-11-06 18:15:14
何気なく母の痕跡を探してネット検索していて、このブログを見つけました。高橋絹代は母、私は長女。母の逝去の連絡をしたのは三女。母は病気が進行しても最後までクレッシェンドを出すことにこだわっていました
。幼い頃に肉親と辛い別れを経験した母の詩はどこか物悲しいものが多く、私はそれを覗き見るのが何だか辛く、母の詩を読むのは避けていたところがある。母は生前鍋焼きうどんが好きだと言っていたが、その理由が初めてわかった。鍋焼きうどんが好きというより亡くなった実母の面影を追っていたのだろう。家にはボロボロになり、ほとんど形になってない針刺しがあり、長年新しい物には変えられてない。針刺しの裂け目からは髪の毛が見えていて、小さい頃からその針刺しを見るのは怖かった。お姉さんの形見だったんだ。
母のクレッシェンドを通してのお付き合いは全国に及び、実家にいる三女が今でも対応に追われているが、沢山の方々から母の事を聞き、改めて母が遺したものについて考えるこの頃。まだ、片付けなどに追われて、ゆっくり母の詩を読むには至ってないが、一区切りついたら読みたいと思う。旅行に連れ出すと、必ずメモを取り、パンフを集め、説明文をじっくり読むのでいつも待たされていた。待たせるのはお構いなしなので、文芸館や資料館は出るまでにとても時間がかかった。
去年の11月は一緒に山形に旅行に行った。あれから8ヶ月後には母がいないという現実。この現実をゆっくり受け止めつつ、前に進む日々です。クレッシェンドを読んでくださり、母の詩を載せて頂きありがとうございました。
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お心配りを有難うございます。 (tefutefu)
2022-11-06 20:04:18
「くれっしえんど」に栞として挟んでいただいた一筆箋の文を一枚、私の仏壇に置いて毎朝高橋さんにご挨拶しております。今、送って頂いた御文を拝しまして、なるほどと高橋さんのお人柄が改めて偲ばれました。3年前に清水市のホテルで行った詩話会では会が終わって帰られた後またホテルに戻ってこられて、たくさんのお土産を頂戴いたしました。あの日がとても貴重な思い出となりました。いつまでも忘れられない詩人です。どうぞお母さまが残された命を大切に前へお進みください。遠くから応援させていただきます。有難うございました。
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Unknown (長女)
2022-11-06 20:41:12
こちらこそ、こんな形で母の詩を目にできるとは思ってなかったですし、思い出話も聞かせて頂き感謝です。本当にありがとうございました。
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