通信教育の醍醐味。私がだした葉書への感想がフェイッスブックに
昭和59年度の卒業生。いすゞ自動車の企業内訓練校・いすゞ藤沢工業高等学校(2年制の中卒訓練)の生徒。複雑な事情を抱えて入学した生徒が多かった。手当が貰えて寮にも入れる。いすゞでの専門科目の学習は技能連携科目で二重負担の軽減で高校の単位認定に。普通科目は通信で学習し修業年限4年で卒業。こんな仕組みの学校がたくさんあったのに。格差を補填する仕組みだったような気もする。
日刊工業新聞に載っていた、いすゞ自動車の情報です。
http://www.nikkan.co.jp/news/nkx0420150406beab.html
いすゞべったりだったので仕方なく強引にいすゞアスカを買わされた?
85キロ強歩の思い出の道志への道で いすゞアスカをバックに
先週、高校時代の恩師から葉書が届いた。
葉書には定年を過ぎた今も、まだ新しいことにチャレンジしようとしているご自身の近況や、僕の息子の事など、前向きで温かい言葉が溢れていた。
現在の自分のイメージがあるので(笑)、当時の事を書くのは控えるが、先生には面倒を掛けた記憶しかなく、歳を重ねた今振り返れば、恥ずかしくも申し訳ない気持ちになる。
それでもこうして、教え子を未だに気に掛け、葉書を送ってくれる心遣いに感謝せずにはいられない。
やはり…
幾つになっても先生は先生のまま。
葉書を読みながら、自然と背筋が伸びた。
せっかくの機会なので自分の思い出を書いておこう
私も高校進学するときかなり悩んだ。テニスで当時インターハイを制していた中大附属に入りたいというのが夢だった。大工の親父の稼ぎが悪くてとても私学は無理だ。お金がかからない養成学校・訓練校も視野に入れた。横河電機か石川島播磨が候補に。が、入試が終わっていた。あとは自転車で通える都立小金井工業高校しかない。訳も分からず一番先にあった機械科・Mに丸をつけた。0.9倍の秀才と化学の中山先生に嫌味を言われた。しかし周りを見ると秀才が多い。そんなこんなで(しょうがねいこうぎょう)の高校生活が始まった。当時(昭和36年)の高校進学率は62%。定時制の生徒も秀才が多かった。自分の環境を考えての進学方法だった。働きながら学ぶというのは普通の考えであった。だからみんな必死で勉強した、悪さもした。個性輝く時代であった。