訳のわからない通信制工業高校に入って(1971年 昭和46年4月)6年目。
高校通信制、技能連携教育、学習の二重負担軽減、ゆだね教育、出講、高体連・高野連、学校行事等にやっと全体像が見え始め、自分の気持ちが表れ始めた時期に一冊のノートに想いを書きなぐってきた。
「すみれ草」という名前は、成城学園前駅南口の駅前の地下にあった「すみれ」という喫茶店の名前をとった。科技高の先生のたまり場になっていた。当時、成城学園前は高級住宅街であり、飲み屋は数える程しかなかった。
テーマを決め、ノート一ページに想いというか怒りを書き留めた。いつのまにか二冊目が終わり新しいノートを購入した。もうこんなノートはいらないのではと思っていたが、昨日、NHKプロフェッショナル仕事の流儀「内科医・天野惠子」を見て考えを変えた。76歳の現役医師である。知る「識(し)る」ことは聞くことであり記録することである。
はじめの一歩を紹介しよう。
31歳の「なんでも知ろう、なんでもやろう」と意気軒昂な時。もしかするとスキーの準指導員検定試験に落ちたころかな?
1977年(昭和52年)3月18日
「人の生きるみち」
なぜ俺はこのみちを歩いているのだろう。
目を大きくひらけば成城のまち並みが窓ごしにみえる。
みな、それぞれの生きるみちを探しているのだろう。
工事の音がたけだけしく聞こえる。
あの音をよりどころにしている人もいる。
いろいろ生きるみちはある。
清い、生きるみち。
みにくい、生きるみち。
貫徹する、生きるみち。
・・・
いろいろあろう。
俺はどのみちをあるいていることになるのか、いま。
激しく、気概のある、血のかよったみちを探し、歩きつづけよう。