「どう生きるか」とは、いろんな生き方の選択肢の中で、どれを選ぶかということでもある。
人間に自由意志がある以上、人生は、絶え間なく私たちに「あれか、これか」の選択を迫る。
卑近なことでいえば、テレビを見る、見ない、もそうだし、昼食をカレーライスにするか、ラーメンにするかも選択である。しかし、これらはどちらを選んだところで大差はないが、人生には、その後の明暗を分ける重い選択というものがある。
「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ」。これはシェークスピアのハムレットの台詞だが、ここまでギリギリの選択を迫られる機会は少なくても、職業の選択などは、誰しも経験することであり、将来をかなり左右もする。
まず働く、働かないで、人生は変わるし、働くにしても、農業をやるのか、商売をやるのか、医者になるのか、芸能をやるのか、どれを選ぶかで、その後の人生は大きく変わるだろう。
時は逆戻りしない以上、将来を決する重い選択であればあるほど、人は迷う。迷った末にどれかを選ぶわけだが、その時、何を基準に選んでいるのだろう?
無意識のうちにも、人は善きものと、悪しきものとを区別し、善きものを選び、悪しきものを捨てようとしている。
だが問題は、何が善きもので、何が悪しきものなのかである。
迷いの凡夫が、自分の都合で決めた善・悪では、いくら善い選択をしたつもりでも、決してそれは真実の幸福という実を結ばない。
秀吉が臨終に、「夢の又夢」と人生を歎き、はかなく消えていったのがいい例ではないか。
(つづく)
人間に自由意志がある以上、人生は、絶え間なく私たちに「あれか、これか」の選択を迫る。
卑近なことでいえば、テレビを見る、見ない、もそうだし、昼食をカレーライスにするか、ラーメンにするかも選択である。しかし、これらはどちらを選んだところで大差はないが、人生には、その後の明暗を分ける重い選択というものがある。
「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ」。これはシェークスピアのハムレットの台詞だが、ここまでギリギリの選択を迫られる機会は少なくても、職業の選択などは、誰しも経験することであり、将来をかなり左右もする。
まず働く、働かないで、人生は変わるし、働くにしても、農業をやるのか、商売をやるのか、医者になるのか、芸能をやるのか、どれを選ぶかで、その後の人生は大きく変わるだろう。
時は逆戻りしない以上、将来を決する重い選択であればあるほど、人は迷う。迷った末にどれかを選ぶわけだが、その時、何を基準に選んでいるのだろう?
無意識のうちにも、人は善きものと、悪しきものとを区別し、善きものを選び、悪しきものを捨てようとしている。
だが問題は、何が善きもので、何が悪しきものなのかである。
迷いの凡夫が、自分の都合で決めた善・悪では、いくら善い選択をしたつもりでも、決してそれは真実の幸福という実を結ばない。
秀吉が臨終に、「夢の又夢」と人生を歎き、はかなく消えていったのがいい例ではないか。
(つづく)