静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

あれか、これか

2010-05-14 19:06:12 | Weblog
親鸞学徒というのは、
「親鸞聖人の〃正統な〃教えを
 我も信じ
 人にも教え聞かしむるばかり」
これに徹する人をいいます。

「私は親鸞学徒である」という自覚から、こうして書いているので、それは「僕が僕らしくあるために」やっているわけではありません。

先日から書いておりますように、「自由」なのも、「僕らしく」も結構ではありますが、
人間が生きていく以上、
「あれもこれも」
というわけにはいかず、
「あれか、これか」
の選択を迫られるのです。

ここでどちらを選ぶか、そこにその人の「信仰」があるのだ、ということを書いてまいりました。
何も「信ずる」ものがなければ、どちらにするか決めようがないのです。

ではそこで、

自分はいちばん、この人生で何を最優先しようと考えているのか、もう一度、振り返ってみてはどうでしょう。
自分で決めればいいことですが、そのかわりその結果は、全部、自分で引き受けねばなりません。自分の「信仰」に基づき、自分で決めた結果なのですから。たとえ火の車に乗せられることになろうとも、だれに文句の言いようもありません。

その時その時、自分のやりたいように生きるのだ、などと言えば、随分かっこよく聞こえますが、やりたいように生きられる人なんて本当にあるでしょうか?仮にできたとして、そこに本当の安心や満足があるものでしょうか。

多分、ない。なぜなら

人間は妙なもので、自分だけは永遠に生きられるかのように思っています。死は他人のことだと思い込んでいます。妄想顛倒も甚だしいけれど、それが私たちの偽らぬ実相です。
だから、大変な勘違いから人生を出発させているのです。

人は皆、「生簀の魚」であることに気づかずにいます。以前、ここに書いたとおりです。
それを善導大師は『往生礼讃』に次のようにおっしゃっています。

「人間怱々として衆務を営み、年命の日夜に去ることを覚えず。灯の風中にありて滅すること期し難きが如し。忙々たる六道に定趣なし。未だ解脱して苦海を出ずることを得ず。云何が安然として驚懼せざらん」

これを意訳すれば、

「人は皆、あくせく、せかせかと、世間の雑事に追い回されて、自分の寿命が、日夜刻々と縮まっていることを知らない。命のはかないことはロウソクの火が、風の中にゆれて、いつ消えるか分からないようなものだ。迷いの世界、六道を不安いっぱいで、へめぐって落ち着く所がない。いまだに迷い続けて、苦悩の世界を出ることができないでいる。どうして安閑としてこの激しい無常に驚かないのだろうか。一大事は迫っている。まことに危うい限りである。すべての人々よ、強く健やかな今時に聞法し、自らつとめ、励んで、後生の一大事の解決を求めよ」

ということになりましょう。

いくら文芸や音楽に打ち込んでいても、ちょっと病気で寝込むとたちまち死の不安に襲われる。
無意識下に眠っていた死の恐怖が、病気を縁として入道雲のように湧きあがる。日夜不安で輾転反側(てんてんはんそく)する。死は一瞬にして私の全存在を否定し去るからです。


この生死の一大事の解決こそ、最優先すべき大問題ではないでしょうか。
仏法の目的も、当然、ここにあります。


ところが、先日発刊された、真宗の〃本山〃の『歎異抄』解説本に、この一大事の解決はほんの少しでも触れられていたでしょうか?

やはり

残念な内容でした。どう残念だったかは、別の機会に書くことにします。