何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

大鯔 すたん、ぶびょう

2017-06-29 18:30:00 | 
「大鰡」より

本仲間から勧められた「大鮃」(藤原新也)にひっかけ、前回のタイトルを「大鰡(ボラ)」としたのは、本書のはじめに登場する精神科医の御託に反発を覚え、つい「大ぼら」と言いたくなったからだが、勿論それへの言い訳も考えてある。

猫マタギと言われるほど泥臭いことで知られる鰡を、子供の頃に大量に釣ったことがある。
持ち帰っても誰からも喜ばれなかった鰡を、庭のイチジクの根元に埋めたところ、翌年の秋のイチジクは、それまで食べたこともないほど甘く美味しいものとなったので、私にとっての’’ボラ’’は、トドのつまり(笑い)瓢箪から駒 的出世魚なのである。

前置きが長くなったが、このような思いをもって名付けた前回「大鰡」なので、本書の感想は理解の深度は兎も角(トドのつまり)なかなか良いものだった。

「失われた父性を取り戻すために父の故郷を訪ねよ」という精神科医の勧めに従い、スコットランド最北端に位置するオークニー諸島にやってきた主人公・太古は、そこで父性を取り戻させてくれる二人の老人マークとアランに出会う。
その設定と場面展開は、あまりに作為的だが、それを忘れさせるほど生き生きとした情景描写は、詩のようで魅力的だ。また、荒れ狂う嵐の後に美しい虹がかかる天気の移ろいが、太古の心模様の変遷を映しているところなど、露骨に作為的だと思いつつも「巧い」と唸らされるものがある。

ただ、「うまい」に「巧い」という字を当ててしまうところに、今日の題名が「すたん、ぶびょう」となってしまう理由があるが、まずは率直に感動した部分を記しておく。
太古が荒れ狂う嵐のただなかに初めて身を置き、太古自身 一つ成長したと感じるところから、クライマックスの幻想的な虹のもと体長3メートル200キロを超すような大鮃と遭遇し、太古が男性性を取り戻すまでの風景描写と含蓄ある言葉の数々。(『 』「大鮃」より)

初めて自然と対峙し逸る太古にかける木造船大工のアランの言葉は、印象的だ。
『外海に出ていくのもいいだろう。だが何もむやみに荒海に突っ込むだけが男じゃない。
 海が荒れたら引き返すんだ。それが本当の男というものさ。
 強さだけじゃダメだ。海に打ちのめされ、自分の弱さも知ってはじめて男になる。』

いよいよ父との思い出である大鮃’’釣り’’のため沖に船を進めようとしたとき、空にかかる虹を見てのマークの言葉は、ただ自然現象だけを指すのではないと思われ、その美しい描写とともに深く印象に残っている。
『虹は気象に何かが起こった後にできる過去の現象だ。
 虹を見落としちゃならない。
 どのあたりに虹がたつか、それは釣りにも繋がるんだ。
 漁師は前ばかりではなく、三百六十度すべてを見ていなけりゃならない。~中略~
 真昼の虹は希望であり、夜の虹は神の啓示だと。
(神の啓示とは?)・・・・大きな変化の兆し』

何より、「日本百名山」(深田久弥)にある『常念を見よ』という言葉を心に留めている私の印象に残ったのは、 大鮃釣りに悪戦苦闘している太古の耳にふと思い出された父の『海を見ろ』言葉だ。
「海を見ろ」と云う言葉に、『目の前の世界と交われ』の教えを見出す場面は、私自身考えさせられるとともに感動の場面だった。

にもかかわら この文章の題名が「すたん、ぶびょう」であるのは、本書が最後の最後まで「父性こそ神だ」という印象を残そうとしているからだ。
いや、いっそ「父親からのみ伝えられる超自我たる父性は神のごとく貴重で素晴らしい」と書ききっていれば、それは私の信条とは異なるとしても、終始一貫しているとして「すたん、ぶびょう」とはならないと思う。

だが本書には、父性あるいは男性性の一面が間違った方向に利用され、広く長く悲劇を生み出す様も書かれている。
太古はマークとアランにより父性を取り戻していくが、特に大きな役割を果たすことになるマークは、かつて自身も父の存在や関係性に悩んだことがある。
マークの父は第二次世界大戦で、民間人である少女を銃殺してしまった心の疵が、戦後長く癒えず苦しみ、それによる発作で家族は翻弄されることになる。
医師は、マークの父を「戦争の犠牲者だ」と言うが、マークはそうは思えなかったため途惑い苦しむ。
マークは語る。
『犠牲とは自分の身を捨てることによって何かの為になることですが、父の死(自殺)に何か意味があったかというと、何も意味はないのです。
それは戦争に意味がないということと同じです。意味のない世界に巻き込まれた人間は生きる意味を失います。考えてもみてください。ただ国家同士が争っているという、そのことだけで互いに憎しみも怒りもない普通の人間同士が殺し合いをする。これほど馬鹿げたことはありません。国家というものは時に人間以上に狂うのです。その狂ったものに支配された人間も狂わざるをえない』
『昔の漁師はこのように言いました。
海が暴れて人が遭難した時、死んだ者は海の生贄となって海の怒りはおさまり、元の平穏な海に戻るのだと。
しかし戦争というものは、何百万もの人の命を生贄のように食って世界は平穏になるかというとそうではなく、その余波は更に延々と他者の人生を蝕むのです』

かつて我が国も、尊い御存在の尊さを、父系由来の’’有難さ’’に見出し神だと崇め、神国・神風を信じた時代があった。
自国に自信と誇りを持つことは当然のことであるが、一方の性のみを有難がり神格化する思考は排他性につながり 最終的には争いの原因となるように思えてならない、そしてその傾向は今また強くなっている。

そのような時に、その行きつく先の悲劇を知りながら、「神とも云える超自我は父からしか受け継ぐことができない貴重なものだ」と書く目的は何なのか、今一つ釈然としないものが残ったのだ。

とは云うものの、視点を移せば別の味わいも感じられる。
本書は帯に「父性をもとめ」とあるし、物語が父性を求める旅で構成されているため、一見そればかりが強調されるが、隠れたテーマとして「老い」があると思われる。
数ページに一度は出てくる「男性性や父性」というテーマよりも、そこはかとなく漂う「老いの受容」の方が、底が深いと感じられた。
そう思いながら再度、一ページ目をめくると、作者も実はこれこそが伝えたかったのではないかと思われる文章が記されている。

『どうやら人の命には四季という名の血が脈打っているらしい。
 春は生まれてより少年期にいたる萌芽の季節。
 夏は青年期における開花の季節。
 秋は壮年期の季節。
 だがそれに続く冬季は、そののちふたたび春がやってくるわけではない。
 落葉の季節の彼方には死への扉が見える。
 「しかし死の扉の前に立つ老いの季節は絶望の季節ではありません。
 落葉もまた花と同じように美しいものです」』

平均寿命の四等分と、命の春夏秋冬が合致しない超高齢化社会に生きている私は、今どのあたりを彷徨っているのだろうか?

とても高尚なことが芳しい言葉で紡がれている本書だが、私にはそれを心底味わい表現する’’力’’がない。
それ故に、この記事のタイトルを「すたん、ぶびょう」とするものとする。

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