何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

芸術論ラブストーリー

2017-01-31 22:37:05 | 
「ありもしない魔球を追うな」より

「蜜蜂と遠雷」(恩田陸)の設定には些か疑問を感じているのだが、芸術論のようなものには共感し、想像を膨らませながら楽しく読むことができた。

どのような想像を膨らませていたかといえば、男女の恋愛観と芸術についてという深遠な内容だ。
「男女の恋愛を芸術に例えると、男性は心に絵をかけ、女性は心に曲を流す」 という
その心は・・・・・本書について記した後、再度考えてみる。

本書を一言で云うと、全く異なる環境でピアノに向き合っている若者4人がコンクールで出会い、お互い良い影響を与えながら成長する青春群像モノといえると思うが、ピアノコンクールが舞台だけに、コンクール関係者の芸術観や諸事情などが随所にみられる。

審査員の一人三枝子は主要な登場人物だが、彼女の友人である売れっ子作家の言葉が面白い。
売れっ子作家は、文芸業界とクラッシックピアノの世界は似ているという。
『ひたすらキーを叩くところも似ているし、一見優雅なところも似ている。人は華やかなステージの完成形しか目にしていないけれど、そのために普段はほとんどの時間、地味にこもって練習したり原稿書いたりしてる』
『なのに、ますますコンクールも新人賞も増えるいっぽう。いよいよ皆ひっしに新人を探してる。なぜかっていうと、どちらもそれくらい続けていくのが難しい商売だからよ。普通にやってたって脱落していく厳しい世界だから、常に裾野を広げ、新しい血を輸血し続けていないとすぐに担い手が減ってしまい、パイそのものも小さくなる』

鍵盤もパソコンキーも「叩く」ものという事だけを以て共通性を決めつけているのではなく、その相違点も認めている。
『世界中、どこに行っても音楽は通じる。言葉の壁がない。感動を共有することができる。あたしたち(作家)は言葉の壁があるから、ミュージシャンは本当に羨ましい』

確かに、音楽と文芸作品は、芸術という同じ括りの中には入る。
だが、見たまま聞いたまま心に伝わる絵画や音楽と異なり、文芸作品は言葉を介するため、理解の深度に反して、’’ストレートに心に訴えかける力’’と普遍性という点で弱みをもつのかもしれない。

この、「’’ストレートに心に訴えかける力’’が人に突きつけるものを探ること」こそが、本書のもう一つのテーマではないだろうか。

それを考えるために、作者が読者に送り込んだ「ギフト」が、少年・風間塵。
家にピアノがないため限られた練習しかできないにもかかわらず、ピアノ界の巨匠にその才を認められ、コンクールに送り込まれた少年・風間塵。
巨匠は少年を天からの贈り物「ギフト」だという。
だが、それは神からの恩寵と云う単純なものではないともいう。
『(少年を)体験した者のなかには、彼(少年)を嫌悪し、憎悪し、拒絶する者もいるだろう。
 しかし、それもまた彼の真実であり、彼を体験する者の中にある真実なのだ。
 彼を本物の「ギフト」とするか、それとも「災厄」としてしまうかは、皆さん、いや、我々にかっている』という。

本書を読み終えた後、カバーの折り返し部分に書かれた巨匠のこの言葉を改めて読み、それは芸術が普遍的に有する芸術ゆえの力であり怖さであると感じたのは、ピカソの「ゲルニカ」を思い出したからだ。

例えば、法隆寺の夢違観音や安曇野の道祖神の幾つかは、一日中でも飽かず眺めていられるほど好きだし、聖書の知識が皆無のまま初めてマグダラのマリア像を見た時なぜか涙が出たことも覚えている。
美術作品のなかには、慈悲や慈愛や美しさや豊穣を描いて素晴らしいものがある。
悲劇すら、美しく表現されることで心を清らかに打つ作品と成り得るが、悍ましさ故に目を背けたくなるような作品もある。
人により、それは異なるだろうが、その代表例として私が真っ先に思い浮かべるのが、ピカソ「ゲルニカ」だ。

それは、「ゲルニカ」が視覚的に世にも奇妙で恐ろしいからだけではないと思う。「広島で<ゲルニカ>を考える」
「暗幕のゲルニカ」(原田マハ)を読めば、ピカソが「ゲルニカ」に込めたメッセージが理解できるが、仮に説明文を読まずとも、「ゲルニカ」には目を背けたくなるような何かと、目を背けてはならないと強烈に思わせる何かがある。
それが強烈過ぎるため、目を伏せたくなるのだ。
「暗幕のゲルニカ」のよると、「ゲルニカを描いたのは(描かせたのは)、この世界にいる我々一人ひとり」ということになるのだと思う。
この思考は、「少年の音楽に何を感じるかは、それを体験する者のなかにある真実なのだ」というピアノの巨匠の言葉に重なるものだと思われる。

本書を、コンクールで競い合う若者たちの青春物語と捉えれば、その設定には無理があると思う。
だが、本書の主眼を、「偉大な芸術とは、それを体験する者のなかにある’’真実’’を抉り出し炙り出すものだ」と捉えれば、深く考えさせられる。

これまで触れた芸術作品を思い返し、自分の内面に問いかける切っ掛けを与えてくれた「蜜蜂と遠雷」は、設定の不自然さは兎も角、印象に残る良い本であった。


ところで、冒頭の「男女の恋愛を芸術に例えると、男性は心に絵をかけ、女性は心に曲を流す」・・・・・その心は?
絵画なら何枚も同時に壁に掛けて愛でることができるが、音楽は一曲ずつしか堪能できない。
つまり、男性は同時に何人もの女性を愛せるが、女性のそれは一筋だということだ。
この喩を何で読んだか記憶にないので検索すると、どうも柴門ふみ氏の「恋愛論」という本にある一節らしい。
カンチだか織田雄二だかに逆上せ上っている友人から「東京ラブストリー」(柴門ふみ)を借りて読み、赤名リカの天衣無縫な身勝手さに怒り狂った覚えもあるが、「恋愛論」を読んだ記憶はない。
だが、最近 柴門氏が大変な愛犬家だという文を読んだので、柴門氏の言葉に間違いはないと確信している。

参照、柴門ふみ「ずっと犬を飼いたいと思ってた」 http://petomorrow.jp/column_dog/5198
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