「球児に春よ来い!」より、続いているようで続いてないかもしれない話
「真面目な心臓」の作者・永井明氏は医師であるが、本書の登場人物の医師に 『お前(五郎)の場合、百メートルを走るために必要な速筋繊維が、人並み外れて発達している。これは努力なんかでどうこうなるもんじゃない。生まれつきの資質なんだよ』 と云わせ、努力では超えられない天賦の才を力説している。
さしたる才に恵まれることのない私としては、苦心惨憺・臥薪嘗胆・石の上にも三年の末に花開く といった熱血スポ根の話をウルウルしながら読むのが好きなので、実際には努力では超えられない天賦の才があるとしても、せめて物語のなかだけでも真面目な努力家が勝ってくれよと思うのだが、現実にそれをすると人生を棒に振りかねないという老婆心と真面目にコツコツを嫌う空気が蔓延しているからだろうか、緩い話が多いように感じている。
今一番の話題の本の帯が「私はまだ、音楽の神様に愛されているだろうか?」だから、やはり天賦の才あるいは神の恩寵・御加護は重要なのだと思う。
「蜜蜂と遠雷」(恩田陸)
本書は一言でいうと、様々な環境のなかピアノに向き合う若者たちが、同じコンクールに出場し成長する姿を描いた青春群像モノといった処か。
子供の頃に神童と持て囃されたが諸藩の事情により一時期ピアノを離れ、何年かぶりに音楽の世界に帰ってきた女性・亜夜とそのピアノ仲間(ライバル)の物語だが、本書のタイトルに関わるのは亜夜ではなく、養蜂家の父に連れられ世界を旅する風間塵という少年だ。家にピアノがないため、ピアノがある場所を見つけては練習を重ねているという風間少年が、ピアノ界の世界的巨匠に天賦の才を見出され推薦されたおかげで名門コンクールに出場できたという設定は兎も角、この少年をめぐる芸術論は、本書のもう一つの柱だとは思う。
そんな二人の脇をかためる心優しいライバルが、夢を諦めきれず年齢制限ぎりぎりで最後の挑戦を試みる高島明石と、優勝候補の本命であるマサル・C・レヴィ=アナトールだ。
この4人の音楽性とそれを論評する音楽界を描く「蜜蜂と遠雷」
この設定に現実味があるか否か、本当のところは、凡人の私には分からない。
ただ、本書の主人公の亜夜と同じく子供時代にコンクールの上位を総なめし天才少女と称された千住真理子氏(その母・千住文子)の著書を何冊か読んでいる私には、本書の設定に無理があるような気がしてならない。
千住真理子氏は、数々の賞を受賞し天才少女の名を欲しいままにし、プロとしても活躍していたが、心を病みヴァイオリンに触れることすらできなくなる。それは、商業主義に侵された音楽業界にあって、妬み嫉みの渦に揉みくちゃにされ疲れ果てたということもあっただろうし、寝食以外の全ての時間を練習に捧げてきたことによる疲労ということもあったとは思う。
二年間、ヴァイオリンに触れることすらできなくなっていた真理子氏が、再びヴァイオリンを手に取ったのは、ホスピスからの依頼に心が動かされたからだという。
二年ぶりの演奏は、真理子氏にとっては許しがたい出来だったが、明日をもしれぬ患者さんは涙を流して聞いてくれた、この経験を経て、真理子氏は再びヴァイオリンに取り組み始めるが、事はそう簡単ではなかった。
真理子氏は当初、二年のブランクは、二年の死に物狂いの練習で取り返せるだろうと考えていたが、そうではなかった。
二年を疾うに過ぎ、五年たっても元の自分には戻らない。
「自分はいったいどこまで落ちろのだろう」ともがき苦しみながら、一年あと一年と続け、ようやく元のように指が動き納得できる音色を見つけた時には、七年の月日が経っていた。
中学校の部活で先輩から借りた「エースをねらえ!」(山本鈴美香)を回し読みし、宗方コーチの「ここまでだと思った時、もう一歩ねばれ! それで勝てないような訓練はしていない」という言葉に感動していた私なので、真理子氏の父が千住兄妹に示された教えも心に刻んでいる。
『 近道を探すな。そういうずるい方法を考えるな。
遠い道を苦労して歩きなさい。
そして根をあげずに頑張りなさい 』
この厳しさからみると、本書の設定は緩い感は否めないが、芸術がもつ普遍的な力に触れている場面は強く印象に残っている。
そのあたりは、つづく
参照、「光は必ずや闇に勝つ」
追記
「エースをねらえ!」の主人公・岡ひろみは宗方コーチに天賦の才を見出され大成するのだが、そこには血の滲むような訓練がある。訓練の厳しさから魔球に憧れた時に宗方コーチに窘められた言葉が、本日のタイトルである。
「真面目な心臓」の作者・永井明氏は医師であるが、本書の登場人物の医師に 『お前(五郎)の場合、百メートルを走るために必要な速筋繊維が、人並み外れて発達している。これは努力なんかでどうこうなるもんじゃない。生まれつきの資質なんだよ』 と云わせ、努力では超えられない天賦の才を力説している。
さしたる才に恵まれることのない私としては、苦心惨憺・臥薪嘗胆・石の上にも三年の末に花開く といった熱血スポ根の話をウルウルしながら読むのが好きなので、実際には努力では超えられない天賦の才があるとしても、せめて物語のなかだけでも真面目な努力家が勝ってくれよと思うのだが、現実にそれをすると人生を棒に振りかねないという老婆心と真面目にコツコツを嫌う空気が蔓延しているからだろうか、緩い話が多いように感じている。
今一番の話題の本の帯が「私はまだ、音楽の神様に愛されているだろうか?」だから、やはり天賦の才あるいは神の恩寵・御加護は重要なのだと思う。
「蜜蜂と遠雷」(恩田陸)
本書は一言でいうと、様々な環境のなかピアノに向き合う若者たちが、同じコンクールに出場し成長する姿を描いた青春群像モノといった処か。
子供の頃に神童と持て囃されたが諸藩の事情により一時期ピアノを離れ、何年かぶりに音楽の世界に帰ってきた女性・亜夜とそのピアノ仲間(ライバル)の物語だが、本書のタイトルに関わるのは亜夜ではなく、養蜂家の父に連れられ世界を旅する風間塵という少年だ。家にピアノがないため、ピアノがある場所を見つけては練習を重ねているという風間少年が、ピアノ界の世界的巨匠に天賦の才を見出され推薦されたおかげで名門コンクールに出場できたという設定は兎も角、この少年をめぐる芸術論は、本書のもう一つの柱だとは思う。
そんな二人の脇をかためる心優しいライバルが、夢を諦めきれず年齢制限ぎりぎりで最後の挑戦を試みる高島明石と、優勝候補の本命であるマサル・C・レヴィ=アナトールだ。
この4人の音楽性とそれを論評する音楽界を描く「蜜蜂と遠雷」
この設定に現実味があるか否か、本当のところは、凡人の私には分からない。
ただ、本書の主人公の亜夜と同じく子供時代にコンクールの上位を総なめし天才少女と称された千住真理子氏(その母・千住文子)の著書を何冊か読んでいる私には、本書の設定に無理があるような気がしてならない。
千住真理子氏は、数々の賞を受賞し天才少女の名を欲しいままにし、プロとしても活躍していたが、心を病みヴァイオリンに触れることすらできなくなる。それは、商業主義に侵された音楽業界にあって、妬み嫉みの渦に揉みくちゃにされ疲れ果てたということもあっただろうし、寝食以外の全ての時間を練習に捧げてきたことによる疲労ということもあったとは思う。
二年間、ヴァイオリンに触れることすらできなくなっていた真理子氏が、再びヴァイオリンを手に取ったのは、ホスピスからの依頼に心が動かされたからだという。
二年ぶりの演奏は、真理子氏にとっては許しがたい出来だったが、明日をもしれぬ患者さんは涙を流して聞いてくれた、この経験を経て、真理子氏は再びヴァイオリンに取り組み始めるが、事はそう簡単ではなかった。
真理子氏は当初、二年のブランクは、二年の死に物狂いの練習で取り返せるだろうと考えていたが、そうではなかった。
二年を疾うに過ぎ、五年たっても元の自分には戻らない。
「自分はいったいどこまで落ちろのだろう」ともがき苦しみながら、一年あと一年と続け、ようやく元のように指が動き納得できる音色を見つけた時には、七年の月日が経っていた。
中学校の部活で先輩から借りた「エースをねらえ!」(山本鈴美香)を回し読みし、宗方コーチの「ここまでだと思った時、もう一歩ねばれ! それで勝てないような訓練はしていない」という言葉に感動していた私なので、真理子氏の父が千住兄妹に示された教えも心に刻んでいる。
『 近道を探すな。そういうずるい方法を考えるな。
遠い道を苦労して歩きなさい。
そして根をあげずに頑張りなさい 』
この厳しさからみると、本書の設定は緩い感は否めないが、芸術がもつ普遍的な力に触れている場面は強く印象に残っている。
そのあたりは、つづく
参照、「光は必ずや闇に勝つ」
追記
「エースをねらえ!」の主人公・岡ひろみは宗方コーチに天賦の才を見出され大成するのだが、そこには血の滲むような訓練がある。訓練の厳しさから魔球に憧れた時に宗方コーチに窘められた言葉が、本日のタイトルである。