何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

時代を越えて ③

2018-05-22 20:05:50 | 
「時代を越えて ③」より

今年は ’’明治150年'’ などと言っており、そう云う辺りに限って「伝統伝統」と姦しいが、破壊令まで出して、その伝統ある建築物であるお城を破壊したのは、何処の何方であったか。

巨大な清国までも列強の手に堕ちたことを考えれば、西洋に追いつけ追い越せの掛け声は当然の事と思うので、散切り頭で文明開化の音を楽しむくらいは結構だが、和魂洋才などと云いながら、古来からの暦を捨て、日本原産の牡の馬を根絶やしにして西洋化しようとしたことに代表される行き過ぎと矛盾を、どう考えるのか。(参照、「五郎治殿御始末~西を向く侍」(浅田次郎)「颶風の王」(河崎秋子)

しかも、それに既視感がある現在は、後にどのような評価を受けるのだろうか。

このような人為的な破壊は論外だが、様々な災難に遭いながら、復活してきたお城もある。
「時代を越えて②」で記した、落雷で破壊された国宝犬山城の鯱もそうだし、このところ掲載してきた名古屋城も数々の試練を乗り越えてきたことを教えてくれる。
大正10年(1921)の暴風雨で石垣もろとも崩壊したこともある西南隅櫓

地震も暴風雨にも耐えたが、昭和20年(1945)5月14日の名古屋大空襲で焼失したこともある鯱

古来から様々な災害や災難に見舞われてきた日本だが、その度ごとに乗り越え更に発展してきた歴史がある。
その事実を伝える文化がある。
歴史と文化がある国に生まれたことを感謝するのは、このような時ではないだろうか。
他国に対しての優位性でのみしか自国を誇ることが出来ないでのは、寧ろ愛国心が足りない、と云えば言い過ぎだとお叱りを受けるだろうか。

そんな事実を教えてくれるのは、歴史的建造物や歴史書だけでない。
時に小説が、その役割を果たしてくれることがある。
これまでも、そんな本を記してきたが(「起返の記~宝永富士山大噴火」(嶋津義忠)「生きている山を活かす」)、もう一冊力強い本を思い出している。

「夢の花、咲く」(梶よう子)

本書「夢の花、咲く」は、朝顔同心と陰口をたたかれる奉行所の名簿作成係(閑職)中根興三郎を主人公にして第15回松本清張賞を受賞した「一朝の夢」(梶よう子)を遡ること5年前の話である。
(参照、「一朝の夢」については、「一朝の夢、つなぐ想い」 「朝顔同心とチャカポン様の’’夢 幻’’」 「一朝の夢を万年つなぐ」
あの 寝ても覚めても変化朝顔の作出しか頭になかった興三郎に、朝顔からキッパリ足を洗う決意をさせる事態が生じる。
それが、安政の大地震だ。

被害の甚大さに対して、お上の対応は鈍く、御救い小屋(現在でいう避難所)に派遣された興三郎は、さすがに朝顔どころではないと思う。
家族を亡くした者、仕事を失った者、家を失くした者、すべてに倦み疲れている人々を前にし、興三郎が 変化朝顔を咲かせるという「夢」に何の意味もないと考えたのも当然のことだと思う。

それほどに安政の大地震の被害は大きいのだが、本書でその様がリアルに描かれ又 読む者に実感を伴って伝わってくるのは、本書があの東日本大震災の最中に書かれたことと無関係ではないと思う。
だが、作者の意図はそこにはない(と思う)。

地震を食い物に金儲けを企む者や、地震など我関せずと我が道だけを行く者や、救いを求めるばかりの者や希望を見失っている者を目の当たりにした興三郎に、作者はもう一度朝顔の種を手に取らせる。
そうして、興三郎の口を借りて作者が伝えたかった事が、胸をうつ。
それが、東日本大震災発災から日を置かずして書かれた言葉だということが、心をうつ。

『天災はさまざまなものを奪った。ですが、未来まで失ったわけではありません。
 人は生き、町は必ず再生します。
 こたび、命を長らえた私たちが、すべてを背負い、繋げていかなければいけない。
 花が咲くころには、もっと町は復興しているでしょう。
 でも、それを果たすためには各々の力や、強さがいつもよりも必要だと思うのです』

『恥ずかしながら私が思いついたのはこんなていどです。
 花を咲かせたいと思ってくれるだけでいい。夏を思ってくれるだけでもいい。
 少しでも先を考えることが希望になります。
 長屋の軒下で、通りの端で、朝顔を見かけたら、皆が元気だと分かる。
 私はそれを楽しみにしております』

上記の言葉とともに興三郎は、明日には御救い小屋を追い出される被災者たちに夢の花である朝顔の種を手渡すのだ。

もちろん本書が小説であり、この言葉が架空のものであるのは承知しているが、先人がこのような言葉を掛けあい力強く立ち上がってきたことは、その後のお江戸を思えば、容易に想像がつく。
そしてそれは、今を生きる人に勇気を与えるのではないだろうか。

それこそが、歴史とそれを伝える文化を有することの強みではないだろうか。

・・・と、名古屋に始まった一連のものを書いていると、嬉しく しかも打ってつけのニュースが愛知から届いた。

皇太子様がライフワークとされている水の研究のため愛知をご訪問されたのだ。
<皇太子さま、船頭平閘門に=水研究関連の視察-愛知> 時事通信 2018/05/21-19:57配信より一部引用 
皇太子さまは21日、日帰りで愛知県を訪れ、木曽川と長良川をつなぐ重要文化財「船頭平閘門(せんどうひらこうもん)」(愛西市)を視察された。ライフワークとしている水問題研究の一環で、名古屋市の美術館訪問に合わせて実現した。
「閘門」は水面の高さが違う川や水路を船で行き来できるよう、水量を調節する施設。船頭平閘門は木曽、長良、揖斐の三川が1887年に工事で分離されたため、並行する木曽川と長良川の間を往来できるように1899~1902年に建設された。


皇太子様がライフワークとされている水問題は、幼い頃に赤坂御用地を歩いておられた時に御覧になった鎌倉時代の「道」を契機に、大学時代「水の道(水運業)」を研究されたことに始まるそうだが、年を追うごとに水問題に関するご関心の対象は広がり、現在では水を中心に教育・衛生や災害問題に取り組まれ、度々 国連で基調講演もされている。
その基調講演を拝読すると、歴史と文化ある国を体現されるのが皇太子様でいらっしゃることが有難く誇らしく感じられる。

皇太子様は講演などで、古代から現代までの日本の水に関わる文化を世界に発信されていたが、東日本大震災以降は、災害と平和という観点が強く滲み出ている。
講演では、歴史的資料で災害を具体的に示されるだけでなく、和歌集や方丈記に記されている災害時の民の嘆きも紹介される。
だが皇太子様は、災害の悲惨さを直視しながらも、ただ嘆いておられるのではなく、それを乗り越えてきた先人の知恵に学びつつ最先端の科学技術も採用し、人々の幸福につながるよう発展することを信じていると講演されている。

そこに、過去と現在、歴史的書物と科学技術をつなぐ貴重な何かを私は感じている。

防災対策は、災害の種類に応じてそれぞれ専門家がいるのだろうが、広く過去の文献にあたりつつ新しい技術も理解される方がおられることは心強い。
その方が、いかなる苦難の時も乗り越えてきた過去あっての現在だと体現される御存在なのだから、尚更のこと心強い。

地球的規模で活動期となった現在、南海トラフ地震をはじめ三連動や富士山などの噴火に何時見舞われんとも限らない。
歴史家であられる皇太子様は、その厳しさを見据えながらも、先人達と同じく乗り越えていかねばならないと、静かに覚悟を固めておられると拝察している。
そう信じさせてくれる御講演を記して、名古屋紀行を終えたい。
宮内庁ホームページ 皇太子殿下のご講演 http://www.kunaicho.go.jp/page/koen
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