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朝顔同心とチャカポン様の''夢 幻''

2017-08-09 23:58:54 | 
「一朝の夢、つなぐ想い」より

朝顔について書かれた本として思い出されるのは、「夢幻花」(東野圭吾)だ。
「夢幻花」は借りて読んだので正確で詳細な記載はできないが、江戸時代に盛んであった朝顔の品種改良と 封印された黄色の朝顔についてミステリー仕掛けで書かれたもので、時代物の要素を含む本書は東野氏の代表作になりうる本だと、私は思っている。

それはさておき、江戸時代にはあった黄色い朝顔だが、これは現代に伝えられてはいない。
その理由を「夢幻花」は、黄色い朝顔には幻覚作用があるため「禁断の花、追い求めると身を滅ぼす」として幕府がその種を回収して回ると同時に、栽培が広がることがないよう見張る役目まで設けられ、その役目がある一族に代々伝わり現代に至っているからだ、とする。
これが、東日本大震災の原発事故の事後処理にからめて書かれていた為、本書では、黄色い朝顔=メルトダウン原発=負の遺産 との図式が浮かぶあがるが、これこそが東野氏が伝えたかったことに思えてならない。

黄色い朝顔の種に幻覚作用がある故にタイトルが「夢幻花」なのだろうが、人には手に負えぬ’’夢幻’’があると東野氏は言いたいのではないだろうか、少なくともその’’夢幻’’に関わる時には、身を滅ぼすほどの覚悟を持つべきだと言いたいのではないだろうか。
美しさと裏腹に負の要素を持つ黄色い朝顔をテーマにすることで、核燃料の後始末も事故対策も考えず、 安価だクリーンエネルギーだと’’夢’’のようなことを言いながら、原発由来のエネルギーの恩恵に浸れるだけ浸ってきた我々に、夢を追うにはそれに見合うだけの覚悟と信念が必要だと、理科系作家の東野氏は警告しているように、私は感じている。
というわけで、「夢幻花」を読んで以来 黄色の朝顔に象徴される’’夢 幻’’に複雑な思いを持っていたのだが、それを吹き飛ばしてくれるような本に出会った。

「一朝の夢」(梶よう子)
本書によると、朝顔は文化から天保期にかけ、武家や裕福な商人や文人たちの間で大流行し、朝顔のためなら金に糸目をつけぬ者達による花合わせ(品評会)は大盛況だったというが、そんな者達が競って作出しようとしたのが黄色の朝顔である。
好事家にとって黄色の朝顔は、「夢の花」 「何百何千と朝顔を懸命に育て続けた者にだけ朝顔がくれる、一生に一度のご褒美だ」という。
もとより本書「一朝の夢」には、黄色い朝顔に幻覚作用があるなどとは書かれてはおらず、それより寧ろ、別名を牽牛子という朝顔の種は、便秘に効いたり利尿作用があったりと、誰もが薬効に与ることのできるものとして描かれている。

黄色や一般的な朝顔の種の効能は兎も角として、本書は、黄色の朝顔の作出を夢みる男と、純粋に夢を追う男の生き方から身の処し方を考える男たちの物語だ。

本書の主人公・興三郎は、厄介次男ならぬ厄介三男で、本来ならば医師か学者になるべきところを、長男が急死した時には、次男は他家に養子に出ていたため急遽 家督を継いだだけという男なので、閑職に追いやられようと気にすることなく、朝顔栽培の研究に血道を上げている。
だが、興三郎が朝顔の品種改良に取り組んだのは、時流に乗り一財産築こうなどという目論見ではない。
興三郎は、剣術に長けた兄たちとは体格も才能も異なっていたし、明るく活発な兄たちや妹と性格も異なっていた為、家族の中で違和感を感じていたのだが、そんな彼が、ある時 朝顔の変化物に出会い、変化朝顔に自分を重ねたことが、朝顔にのめり込んだ理由なのだ。

大方の好事家が、他人に自分の才と財を誇るために朝顔栽培に精を出すのに対して、興三郎の純粋な想いは、幕末の日本をどのように導くべきか深く悩んでいるいる宗観の眼に留まる。

心に屈託を抱えながら、黄色い朝顔にかける興三郎と日本の行く末を思い悩む宗観の問答は、長年私の心にわだかまっていたものを少し解してくれたし、今悩んでいることに対処する術も少し教えてくれたような気がしている。
そんな大切な問答は、又つづく
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