郷土教育全国協議会(郷土全協)

“土着の思想と行動を!”をキャッチフレーズにした「郷土教育」の今を伝えます。

私の少年時代ー18(東京オリンピック聖火リレー)

2021年08月02日 | 日記

1964年、昭和39年、東京オリンピックが開催された。
この年は忘れることのない強烈な印象が残っている。
ちなみに、年号を自覚的に西暦で唱えるようになったのはこのオリンピック以降だ。

中学の3年になると、しきりに世の中がざわついているのを感じた。
テレビやラジオからは三波春夫が歌う「東京五輪音頭」が頻繁に流れていた。
♪あの日ローマでながめた月が 今日は都の空照らす・・・♪

しかし、4年前のローマオリンピックで水泳の山中毅の活躍を伝えるラジオにかじりついて聴いていた熱中ぶりとは裏腹に、自国で開かれるオリンピックだというのにさほど熱くなれなかったのは何故なんだろう…。
まさか、2020年の東京オリンピックを否定的にとらえる様な醒めた感覚でいたわけではあるまいに…。


2学期になると、聖火リレーが地元の県道を通過するということが言われた。
当然もっと前から決まっていたのだろうが、私は全く関心がなかった。

北海道から太平洋側に沿って南下するコースが、千葉県に入ると利根川下流に沿って西進する。
そのコースが町の北側に数キロかかっていたのである。

どうやら、その聖火リレーに私たち地元の中学生が参加することになったらしい。
今思うと本当にラッキーな話だとは思うが、当の私たちは参加させられる行事の一つにすぎなかった。

後で分かったことだが、ギリシャのオリンピアで採火した聖火はリレーでアテネまで引き継がれ、その後は空路で当時アメリカの占領下にあった沖縄まで運ばれたようだ。
さらに聖火は4つのコースに分かれて日本国内全ての都道府県をまわり、東京の国立競技場までたどり着くのであった。
記録によると、4コース全ての参加リレー走者は10万713名となっている。



私たち中学生は、燃える聖火のトーチを持つ主走者とその後を走る火のついていないトーチを持つ2人の副走者に続く伴走者の役割だった。
たしか20人程いたと思う。
手に持つものは、トーチではなく五輪のマークが入った小旗である。

主走者はインターハイの陸上競技で活躍した地元付近の高校生が務めた。
副走者もそれに準じる高校生だ。
そして町に一校しかない中学校からは、体育系の部活をやっている者の中から選ばれたらしい。
不思議なことに全て男子ばかりで、女子は一人もいなかった。

短パンとランニングシャツのお揃いのユニフォームを着て、町唯一の国鉄駅がある駅前通りで前区間を走ってきた者たちと引き継ぎのセレモニーをした。
その後どのくらい走っただろうか・・・。
沿道には大勢の人々が見物に来ていたようだが、あまり覚えていない。
後にも先にも、こんな大舞台で走ることは二度とないことではあった・・・。


(母が大事に保存してあったユニフォーム。MIZUNO製で上はポリプロピレンとレーヨンの混紡、下は綿である。最終走者の坂井義則さんも同様のものを着用。)


緊張しながら2列の隊列でゆっくり走り、あっという間に終わってしまった。

当時の私の心情としては、この聖火リレーに参加したことはさほどの嬉しさも高揚感もなかった。
それより部活での勝利と来るべき高校入試のことで頭がいっぱいだったような気がする。


2020年の東京オリンピックに、子どもたちをも巻き込んで何やら様々な取り組みがあるようだが、かつての当事者としては複雑な思いである。
1964年という年を忘れられないのは、オリンピックに参加した喜びというよりも、その後の日本社会を振り返ったときにエポックを画する大きな出来事であったからであろう。


 

-S.S-


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