次に足を運んだのは、東金街道を挟んで南側の了源寺。
この寺は浄土真宗本願寺派だ。
境内には親鸞聖人の銅像や鐘楼堂がある。
この鐘楼堂は、かつて享保年間に徳川幕府が大砲を試射するために造ったと言われている台座に建てられたもので、江戸時代から明治4年まで「時の鐘」として毎日定刻に鐘が鳴らされていたという。
余談ではあるが、現在では夕方に防災無線のスピーカーから型通りの音楽や言葉が流されている。
こんなものより、お寺の鐘の音が響いてきたら、どんなに情緒あるものかと思う…。
ここでの「脱走派」の墓石は容易に発見できた。
鐘楼へ上がる石段のすぐ下に在ったからだ。
もっとも、後で調べたことだが、この墓石もある時は八つ手の葉で覆われて見つけにくかったようだ。
寺としては、無縁仏の一つとして置いてあるのだろうが、保存状態は先の慈雲寺のものよりは良い。
しかし、既に石の端の方からヒビ割れが起きている。
このまま放置しては、やがて大きな破損につながるであろう。
ここの墓石に刻まれた文字は、しっかり読み取れた。
正面には、「盛忠院釈貫義居士」
右側面には、「明治元戊辰天閏四月 徳川家臣菅野鋭亮源元資 行年二十八才戦死」とあった。
これも後で知ったことだが、菅野は戦いで傷付き官軍の手に落ち、斬首されたという。
若干28歳、何と儚い命だったことか…。
(つづく)
ーS.S-