郷土教育全国協議会(郷土全協)

“土着の思想と行動を!”をキャッチフレーズにした「郷土教育」の今を伝えます。

私の少年時代ー21(勉強を意識し始めた中学生の頃)

2021年08月28日 | 日記

中学の3年間は 、私にとって大人に近づく大きな3年間であった。

入学からしばらくは、小学校時代とさして変わらない日々を過ごしていた。
ところが、中学という所は「勉強」を否が応にも意識させる。

それまで家に帰ってまで机に向かうことはなかった。
というより、私専用の机というものがなかったのだが、父が昔から使っていた欅製の重厚な机を与えられた。
2枚の平板で作られていた天板には隙間ができていた。
聞くところによると、かつて利根川の上・中流で豪雨があった際に流されて来た欅の大木で作られたという由緒ある机だったようだ。

学校では、各学級毎に生徒の委員が決められる。
委員長・副委員長・書記・会計などである。
そして、委員長は生徒会の評議員会にも出席する。

ところが、新一年生の1学期は、なんと学校側が各学級の委員を決めるのだ。
私は書記に任命された。

どこから分かったかは覚えていないが、その頃の情報筋によると、町内に4校ある小学校から成績上位数名が選ばれ、上から委員長・副委員長…と割り振られたというのだった。

「そういうことか…、このクラスでは出身小学校の中ではトップの成績だったのかオレは…。」
「でも、委員長じゃないから、4校ある小学校ではオレたちの学校はレベル低かったのかな…。」
勉強であろうが何であろうが、勝ち負けとか順位をつけられるとムキになる習性が私にはあったようだ。

こうして競争社会に囲われていくのであった。


当時の苦いエピソードがある。
ある週の始めの全校朝会のことである。
最後に予期もしないことが起こった。
一斉試験(中間考査?)の総合成績の結果が学年毎に発表されたのだ。

「第一学年、第1位○○君、第2位△△君…、第10位○△君、以上!」
私の名前はついに呼ばれることはなかった。
この時ほど惨めな気持ちになったことはなかった。

こうした催しは、それっきりなかったが、その代わりに3年生になると模擬試験の結果が廊下に張り出されるようになった。
回を重ねるに従い掲示される者の数がベスト10くらいになっていったが、ある時、学年の半分以上の名前が掲示されたこともあった。
因みに、こうした成績掲示は高校になっても続いた。


舟木一夫が「高校三年生」をヒットさせた頃、私は小学校時代の自分に別れを告げた。
放課後の遊びも終わった。
毎日、帰宅すると机に向かった。
ここまでは良かった。

しかし、机に向かってやっていたのは白地図への書き込みや色塗りばかり。
鉛筆が止まっている時は、地図ばかり見ていたようだ。
「地図ばかり見てないで、たまには勉強らしいことをしたらどうだ」という父の言葉が妙に脳裏から離れない。
私の地図好きは学年が上がっても関係なく続いた。

ようやく勉強らしいことを始めたのは、模擬テストを受けるようになった中学3年からである。
しかし同時に、ラジオを聴きながらの「ながら勉強」も始まってしまったのである。
きっかけは、NHK第二の「基礎英語」を1年の終わり頃から聴き始めたことだが、3年にもなると歌番組やその頃は少なかったトーク番組を好んで聴いていた。
この「ながら…」は、その後10年近くも続くのである…。


こうして、競争社会に乗せられ、自分の本当にやりたいことが何だか分からぬまま高校受験に向かって走らされていくのであった。
「舟木一夫のようになっていくのかな…」という思いとともに。

 

-s.s-


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