深津牧師と城田すず子
「かにた婦人の村」の『マリヤの賛歌』(城田すず子著)を今回ばかりは読んだ。
「かにた婦人の村」の深津文雄(牧師)が「もと娼婦であったものたちの村」をつくった。
城田すず子の1958年11月18日の告白がある。
なぜ城田すず子は告白し、公表されても平気だったのだろうか。
深津牧師は述べる。
彼女に言わせると「ひとたび過去と別れて再びそこに帰らないものは、死んで生きたようなものだから、
過去などないと同然」(『マリヤの賛歌』まえがき)と述べている。
彼女はそのとき、背中骨折でたおれ絶対安静の病床にいた。
そして、ぽつぽつと語った。
『婦人公論』が抄録している。
更生の記録ではなく、「転落の詩集」とあると深津牧師は述べている。
『婦人公論』が使った「娼婦」という言葉が一般的であったのだろう。
深津牧師は城田すず子のことを「ぼくの先生」と呼んだ。
城田すず子が真の従軍慰安婦のことを教えてくれたからだろう。
深津牧師は、彼女の言葉を聞き逃さないで書いている。
「兵隊さんや民間人のことは各地で祭られるけれども、中国、東南アジア、南洋諸島、アリューシャン列島で、
性の提供をさせられた娘たちは、さんざん弄ばれて、足手まといになると、放りだされ、荒野をさまよい、
凍りつく原野で飢え、野犬か狼の餌食になり、土にかえったのです。
軍隊が行ったところ、どこにも慰安所があった。
看護婦はちがっても、特殊看護婦となると将校用の慰安婦だった。
兵隊用は一回五〇銭か一円の切符で行列をつくり、女は洗うひまもなく相手させられ、死ぬ苦しみ。
なんど兵隊の首をしめようと思ったことか、半狂乱でした。
死ねばジャングルの穴にほうりこまれ、親元に知らせる術もない。
それを私は見たのです。
この眼で、女の地獄を…。」
(『マリヤの賛歌』城田すず子著 かにた出版部1971年7月30日 あとがきより)
今、深津牧師の「噫従軍慰安婦」の碑の建立の意味を噛みしめているところである。
(2015年7月 江戸川区教組夏季合宿時に撮影したもの)
(完)
-Y.K-