昨日の朝刊の朝日俳壇、心にひっかかった句が、こちらです。
稲畑汀子選より
自転車の先へ先へと赤とんぼ 米子市 山下しげ人
高山れおな選より
生きたしと生きたしと鳴くつくつくし 善通寺市 合田豊
色変へぬ松や洩れくるカンタータ ドイツ ハルツォーク洋子
最後の句は、とても好きです。バッハのカンタータは、確かに松という感じが合いますね。
昨日の朝刊の朝日俳壇、心にひっかかった句が、こちらです。
稲畑汀子選より
自転車の先へ先へと赤とんぼ 米子市 山下しげ人
高山れおな選より
生きたしと生きたしと鳴くつくつくし 善通寺市 合田豊
色変へぬ松や洩れくるカンタータ ドイツ ハルツォーク洋子
最後の句は、とても好きです。バッハのカンタータは、確かに松という感じが合いますね。
毎日曜日に新聞に載る俳壇、最近の私に鑑賞力がないせいか、心にひっかかる句があまりありませんでした。俳句は、自分で作ることも大事ですが、人の句を鑑賞することもとても大事なのです。
今回の朝日俳壇で、気に入った句が三つありました。鑑賞力が回復した兆しならいいのですが・・・。
稲畑汀子選から
漆黒の闇来て兜虫となる 今治市 横田青天子
朝練の高き声あり蟬時雨 大阪市 行者 婉
長谷川櫂選から
どの人も液化してゐる西日かな 東京都 竹内宗一郎
やっぱり、文語体で書かないとだめなのかなあ、私は納得できないんだけれど。社会は変化しているのに、旧仮名で書くのはどうも好きになれない。むずかしいですね。
多分、この世にはいないと思います。でも、地方自治体は40年先を見据えた計画を立てています。すごいなあ・・。かわって、国はどうでしょうか?先の未来を本気で考えているとは思えません。
だって、本末転倒じゃない?政治のための選挙なのに、選挙のための政治をやっているじゃない。どうかしてる。
テレビを買い替えるので、日立Woooに入っている録画番組をせっせと見てから削除しています。
今日は2017年8月6日に録画したテレ朝系「ザ・スクープスペシャル ビキニ事件63年目の真実」を見ました。2年前の番組です。これを消してしまうのは、もったいないという思いでした。
戦後の第五福竜丸の被ばくに対して、アメリカが被ばくと認めなかったこと、東洋人だからなのか、まるで人体実験のように被害者を扱ったこと。私はアメリカのあの態度、絶対に許せないです。
今の日本も独立国といえない状況、いやですね。アメリカにあまりに忖度している。日本は軍隊を持たないと言いながら、軍事費はものすごいんですから、アメリカに頼らなくても、自衛の防備は十分ではないですか?いっそのこと、いいように日本を使ってきたアメリカを日本から追い出してもいいんじゃなくて?
ふたつの原爆は、いまだに納得いかないし、これ以上は譲れません!と言ってみてはどうでしょう。そうなれば、広い横田基地、日本に取り戻せますし、何よりも沖縄にとっては最高じゃあないですか。アメリカは本当に日本を守ってきたのか?NOですよ。今こそ、離婚するときです。アメリカのDVにはもう、我慢できません。
当たり前のようになっている、俳句の表記について、私はいまだに理解できないまま、俳句の世界に足を突っ込んでいます。明治時代に言文一致運動があり、戦後は新仮名遣いになったのに、いまだに俳句では歴史的仮名遣いが主流というのは、ただの懐古趣味かアナクロか?格調高ければ、それでいいのかと不思議でなりません。時代を切り取るものでなければ、どんな芸術も文学も意味がないと、私は思います。
芭蕉の時代は、それが当然だったから。今は、若い人たちが旧仮名を使うのがコスプレと似たようなものだとして、それでいいのかとも思います。小説はそんなことしないし。まるで古文書を現代で書いているようなもの。
こういうことに悩む私は、俳句に向いていないのかもしれませんね・・・。
普通に生活していて、「かな」とか「けり」なんて、言いませんもの。ああー、悩む私。土曜日の句会、どれを持っていこうか・・。
文語体で17音なら、口語体ではもっと増やして当然。ぶっ壊すくらいの改革が必要なんじゃない?
先週末、土日は地元の公民館分館のおまつりでした。前日金曜日は準備で、私は午前中は模擬店の手伝いと、午後が展示の作業でした。そして、土曜日は午前中は何とか無事に雨は降らずに、入り口広場での歌声喫茶とフォークダンス(私は踊りませんでした)、翌日は午後遺俳句コーナーで番をしてから片付けをしました。
こんな感じです。色紙に百均のフレームをつけて、まあ無事になんとか飾ることができました。手前に机があり、そこに投句箱を用意していたら、わずかですが興味を持って句作してくれる方がいました。
日曜の午後からは雨が降ってきて、テント解体作業は大変だったようです。こちらはかざった色紙をすべておろして、釘も取って撤収したら、すぐに帰宅してしまいました。
昨日は午後、公民館分館の集会室で関係者が集まりました。それから夜は打ち上げです。私は今回初めて参加しましたが、集まったのは9名。さすがに、専業主婦の方は家をあけられませんよね。宴会のあとはカラオケで楽しみ、親睦を深めました。
そんなわけで、今朝は二日酔いで寝坊してしまいました。
私のような60歳過ぎた一人暮らしは、地元に根を張らないといけません。これはサバイバルのための親睦です。とはいえ、公民館関係のつながりは、なかなか大変です。私の所属する俳句サークルは、市外の会員や高齢の会員が多く、動けるメンバーが限られているから、結局何でもやらざるを得なくなり、疲れます。公平平等というわけにはいかないんでしょうね・・・、とほほ。
季語も、旧暦の物をそのまま使うことに違和感を覚えています。そして、戦後からはっきりと新仮名遣いと口語体とにきっちり変わったはずなのに、歴史的仮名遣いが俳句の世界では当然のように残っています。
正直、私は違和感を感じます。懐古趣味やアナクロニズムと思えて仕方がないのです。戦前の国家主義とか、右翼そのもののように思えてなりません。リベラルな人間が使う言葉だとは、思えないのです。だって、日常で「や」や「かな」という切れ字を使いませんよね?だったら、定型の五七五だって、文語体だからやっていることでしょう。口語体で俳句を作るのなら、定型にはめなくてもいいのではと思います。今の時代に合ったものを詠むべきだと思います。いつまでも、江戸時代みたいなことやっているのが、古文書じゃあるまいし、おかしいです。
季語だって、旧暦の頃と今の暦ではずれがあります。それを修正しないで、季語にこだわるのも、どうかと思います。考えれば考える程、俳句の世界はおかしいです。
こういう疑問を持つ私は、これから俳句をやっていく自信がありません。今の時代を詠むのに、歴史的仮名遣いはおかしい。かび臭いとしか思えません。もっと過激に変革したほうがいい!
だから、高齢者ばかりが集まっているんじゃなくて?今を切り取らなくては、文学の世界とは言えないと思います。俳句って、もしかして、悪趣味?
俳誌「岳」の課題句(波)に2句応募して、評のところに載ったのが
サーファーは北斎の波くぐり抜け
でした。作ったときは、どこかで北斎のあの大波にサーファーがいるパロディーを見たことがあって、それに誰もがそんな組み合わせを詠むだろうと、少し気になっていました。今、調べたら、やっぱりありましたね、マッド・アマノ氏の作品で。
そして、昨日の新聞の俳壇の句です。いすみ市の方がこう詠みました。
サーファーや北斎の波すべり下り
まあ、「サーファー」と「北斎の波」を詠めば、あとは6文字の勝負です。どうしても似てしまう。私の中では、サーファーと北斎の波の取り合わせは、けっこうあるんじゃないかと思っていました。
すべり下りるのがいいのか、くぐり抜けるのがいいのかの違い?類句は多いんじゃないかなあ。なお、サーファーが夏の季語です。
ここ2週間ばかり、以前借りた芭蕉ハンドブックの後ろに載っていた季語別全句一覧を読みながら、ワードに打ち込みました。とても面白かったです。
江戸時代の俳人や趣味人は、それこそ、漢籍から万葉集、和歌もすごく勉強しています。そういう教養があるのが当然でした。その中の和歌やいろんなエピソードをパロディにしている句も多かったし、句の仲間と会った時などの挨拶の句や、さらに絵につける「画賛」としての句も多かったのです。
今、万葉集がブームになってきたというのは、それだけ今の人たちが無教養だってことに違いないですね。万葉集が頭に入っているのは当たり前ですよ。本当に、日本人は無教養になった。せめて、この新元号をきっかけに、教養を身に着けてもらいたいと思います。
父の書斎には岩波古典文学大系があって、子供のころ、よくわからないけれど、万葉集もパラパラめくって読んでいました。
今の世は、ただで配られた号外をネットオークションに出して稼いだり、御朱印をたくさん書いてもらい、それを売ったりと、そういう人って、卑しいというものです。もちろん、昔にもそういう人はいましたが、心が卑しく貧しい(心が!)人って、簡単に人をだましたり、平気で人を殺したりするのでしょう。私は八王子からこちらに引っ越すときにジモティーを使いましたが、唯で手に入れたものを売ったりする人はいましたねえ。まあ、こちらはそんな暇ないし、そういう人がいるのは、ちょっと残念。
人は誠実で謙虚でなくてはいけないと思う。
さて、千句以上の芭蕉の句を読んだところで、そうそう俳句がうまくなるわけじゃあないです。でも、俳句の神様的存在の芭蕉も、けっこうくだらない句を詠んでいたことがわかって、楽しかった。
山吹や宇治の焙炉の匂ふ時
おくのほそ道の勉強から、芭蕉全句に学びを広げ、ひとつひとつワードに入れながら鑑賞していました。そこで、この句にたどり着き、いままで語源を知らないまま使っていた言葉にハッとした次第。島津睦子先生のパン教室で20年近く前に手作りパンを習っていた時、二次発酵をホイロと言っていたのですが、何の疑問も持たずに今に至ってしまいました。ここで、この「焙炉」が「ほいろ」と読むのを知り、そういうことだったんだ!とびっくり・・。
ところで、先日の私のおくのほそ道の疑問点、古文書研究会の先輩I氏に聞いてみたら、調べてくださり、疑問が氷解しました。一般に出回った木版の読み物の奥の細道が、そもそも間違っていたのです。井筒屋と橘屋の版元が悪かったのでした。それ以外のものは、みな「落」ではなく「流」なんです。
そこで、木版の印刷物ではない芭蕉自筆の本が岩波書店からでているので(それも文庫で)、図書館で借りて、木版ものと比べてみたら、えらく違っているのです。さらに迷いの森に入り込んでしまいました。借りている2週間では時間が足りないので、ネットで本を買いました。が、文庫なのに、ゆうパックだから、再配達になってしまいました。ちょうど午前中に医者に行っていて、残念でした。ゆうパックでも、手渡しじゃなくていいのに、本当にごめんなさい!
還暦すぎて、20年前のことが判明してびっくりな、ある意味、事件でした。へええー、ほいろって、そういう漢字だったなんて、今、わかりました。芭蕉さん、ありがとう!