9月19日 又、暑さが戻ったと言うより延々と続いている感じです。
東海道のうち、神奈川県内だけ歩くと言う会があり、興味深く手頃でもあるので
参加しました。今日の行程は藤沢宿から平塚までとの事で暑さにもめげず出掛けま
した。午前9時に藤沢駅北口に集合して出掛けました。
初参加でしたが、知り合いが三人いるので心強いことです。
出発前の準備体操です。これが肝腎な事でお陰で一日疲れずに済みました。
9時20分、出発です。まずは藤沢宿です。馴染みの場所で遊行寺付近が火災の多
かった江戸時代の防火対策としての広小路が設けられた所とリーダーの方が説明され
ました。
近くには現在は紙問屋になっていますが、宿場の一つとして藤沢市の史跡とされて
います。昔話のある町とされています。事実、藤沢にも茅ヶ崎にも多くの民話が伝え
られています。今日は嘗て遊郭の有った町筋は通りませんでした。
やがて本町の常光寺に詣ります。ここには神奈川名木100選に選ばれる大きな
カヤの木が有りました。樹齢700年との事です。
白籏神社を望む交差点の近くに義経の首を洗ったとされる井戸が史跡として残って
います。暑い時期に奥州平泉から何日もかけて運ばれて来た義経の首が正しいものか
甚だ疑問ですが、それを腰越の海岸に捨てられ波によって打ち上げられ更に川を遡って
この地まで辿り着いたとは、川筋から見ても到底納得出来るものでは有りませんが、
ここにも義経善人説が現れている事は面白い事です。
間もなく交差点から白籏神社が見えてきます。前方のこんもりした森が神社です。
建久9年(1198年)相模の国一之宮寒川神社の御分霊として勧進され、後に宝治
3年(1249年)義経が祭神に加えられたとのことです。
県道44号線沿いに小さなお地蔵さんが有りました。女性の願い事なら何でも聞いて
下さると言う、おしゃれ地蔵です。
時折、涼しい風が吹きますが暑い日射しの下をひたすら歩きます。
藤沢宿から約一里の地点に右 大山 左 東海道 となる別れ道があります。
江戸時代の庶民が楽しみの一つとして又、信仰の対象として大山詣でが盛んに行われ
たようです。落語にも大山詣りが有ります。
近くに東海道と大山道が交差する四ッ谷辻に不動尊を祀る不動堂がありました。
間もなく一里塚です。
良く判りませんが庚申塔と二つ家稲荷です。
歩き始めてから一時間半、11時に藤沢市を抜け茅ヶ崎市にはいりました。
振り返ると当然のことながら藤沢市です。
茅ヶ崎市に入って間もなく、ここにも神奈川名木100選の大きなタブノキが
有りました。然し、ここは個人の家の中なのでリーダーさんが交渉して邸内に入れて
頂き間近に見学する事が出来ました。樹齢500年とのことです。
通りに出ても亭々と聳えています。
水嶋家はこの付近では由緒ある旧家のようで家紋の入った立派な門構えです。
上正寺の木陰で小休止です。
近くに牡丹餅茶屋の旧跡が看板だけ建てられていました。茶屋は跡形も有りません。
東海道の松並木は自動車が通る事で、その排気ガスと虫害で殆ど無くなっていますが
茅ヶ崎市には一部残っていました。海岸性のクロマツだけにアカマツよりは少し強いよう
です。
嘗ては、このような松並木が延々として続き、その下を草鞋に振り分け荷物を
背負った旅人がいろいろな思いを抱きながら京へ江戸へと急いだ事でしょうが、
今ではその面影を偲ぶ縁は全く見られません。
以前、スポーツ吹き矢第三回湘南オープンの会場となったTotoの工場がちらりと
見えて来ました。
藤沢宿から一里でここにも一里塚が有りました。
江戸時代に徳川幕府がお江戸日本橋を起点に東海道を一里ごとに道標を設置し、
この茅ヶ崎の一里塚は江戸から14番目になるとのことです。56Kmになります。
昔の飛脚なら一日の行程でしょうか?マラソンより少し長い距離になりますので
その日の内に大礒ぐらいまで走ったかも知れません。
暑い最中なので休憩と水分補給に留意したので予定より遅く12時25分に昼食
の場所にしていた茅ヶ崎中央公園に着きました。やれやれです。
13時まで思い思いの涼しそうな場所で休み、お昼にしました。
13時、出発前に準備体操をします。平塚まで後7Kmです。
午後は先ず、鶴峯八幡宮に寄り、ここでも神奈川名木100選の大銀杏を見ます。
参道は長い道でした。
八幡太郎義家が奥州征伐前九年の役に戦勝祈願として植えたとされていますので
1062年の事になります。948年になりますが本当でしょうか?
鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の大銀杏が今年の春に倒れましたが、それすら700年と言われ
ています。銀杏は丈夫な木とされていますが1000年も生きるとは鶴か亀並みです。
それでも言い伝えは大きければ大きい方が良いし、珍しければ珍しい程貴重なので
逆らわず信ずる事にします。
鶴峯八幡宮の参道を戻り、大鳥居の手前の民家の庭に弁慶塚が有りました。
頼朝は猜疑心の強い人間で義経め・弁慶に対して冷たい処遇をし、最後には藤原家の
お家騒動を利用して殺したものの、少しは良心の呵責に攻められてもいたのでしょう。
川崎の領主、稲毛三郎が亡妻の冥福を祈って相模川に橋を架け、その渡り初めに
頼朝が来てその帰りに平家とも義経・行家とも言われる亡霊が現れ、その為に頼朝の
馬が棒立ちとなり頼朝が落馬し、それが元で翌年頼朝が死ぬ羽目になりました。
ここの里人は頼朝の死より義経・弁慶を悼み弁慶塚を作ったと言われています。
この辺りも義経善人説になります。
頼朝の馬は、相模川に落ちたのでそれからこの川が馬入川とも言われるように
なったとの事です。
やがて冬に良く通る千の川の橋に出ました。何時も見る大鳥居が鶴峯八幡宮の入口
と改めて認識しました。
ここから北西に進みますので、この辺りでは富士山が左に見える事から南湖の左富士
と言われます。
左富士は、もう一カ所静岡県の吉原にもあります。
小出川は冬になると鴨類が集まり探鳥地となりますが、今日は皆無でした。
相模川を渡ると今月3日に第八回スポーツ吹き矢湘南オープンの会場になった平塚
アリーナが見えて来ました。
相模川では馬入の渡し跡を見ました。最近は総て跡しか残っていません。寂しい
ことです。昔の良い事も少しは残して貰いたいものです。
平塚市は茅ヶ崎市から相模川を渡る少し手前から始まります。いよいよ最終点に近く
なりました。
相模川の近くに丁髷塚がありました。
1838年、国府祭の夕暮れ東海道を帰る途中の寒川神社の御輿を担ぐ若者と
平塚八幡宮の御輿を担ぐ馬入村の若者が、些細な事から喧嘩になり双方に多数のけが人
が出ました。怪我人だけでなく馬入村の若者が寒川神社の御輿を相模川の深瀬に投げ
こんでしまいました。
時の代官である江川太郎左右衛門の厳しい取り調べで、下手人16人に打ち首を
命じましたが処刑の日に丁髷だけを切り落とし打ち首に替えたとのことで、その
丁髷を埋めて塚を建てた所を丁髷塚として今に伝わっています。
かくして15時半頃、平塚駅前に無事到着しました。
ここでも柔軟体操で今日一日の疲れをほぐしました。
解散後は早速、駅ビルのラスカでビールを飲み乾杯しました。
距離は約15Kmとのこと。帰宅してから見た万歩計は30188歩となっていました。
目出度し目出度しの一日でした。来月は平塚から二宮の予定ですが折悪しく酒匂川
の定例探鳥会の為、不参となります。再来月の二宮ーー鴨宮は何とかして参加したいと
思っています。
9月20日 お彼岸の入りです。田端の亡妻と両親の墓参をし、柏の亡妻の母親
の墓参と梯子しました。
昨日の体操のお陰で、まるっきり足腰の痛みや疲れはありません。
9月21日 午前中は体操教室です。午後、早めに出て藤沢へ行き買い物をしてか
ら鎌倉へ出て日本書紀の講座受講と思っていましたが、財布の中に入っている筈の
JCBとスイカが一緒のカードが有りません。きっと昨日着ていったシャツのポケット
とは思いますが気になるので一旦帰宅しました。矢張りクリーニングに出そうとして
投げてあるシャツの中に有りました。飛んだドジです。
9月22日 天気予報は暑さも今日までと報じていますが、信用しても良いので
しょうか?今まで何回も騙されて来ました今年の暑さです。
午前中は吹き矢に励みましたが汗だくでした。明日は彼岸の中日です。家の近辺の
曼珠沙華も今年は少なめです。
今回のメインテーマは東海道歩きなので、この辺で終わります。
読んで頂いた方には心から御礼申し上げます。
東海道のうち、神奈川県内だけ歩くと言う会があり、興味深く手頃でもあるので
参加しました。今日の行程は藤沢宿から平塚までとの事で暑さにもめげず出掛けま
した。午前9時に藤沢駅北口に集合して出掛けました。
初参加でしたが、知り合いが三人いるので心強いことです。
出発前の準備体操です。これが肝腎な事でお陰で一日疲れずに済みました。
9時20分、出発です。まずは藤沢宿です。馴染みの場所で遊行寺付近が火災の多
かった江戸時代の防火対策としての広小路が設けられた所とリーダーの方が説明され
ました。
近くには現在は紙問屋になっていますが、宿場の一つとして藤沢市の史跡とされて
います。昔話のある町とされています。事実、藤沢にも茅ヶ崎にも多くの民話が伝え
られています。今日は嘗て遊郭の有った町筋は通りませんでした。
やがて本町の常光寺に詣ります。ここには神奈川名木100選に選ばれる大きな
カヤの木が有りました。樹齢700年との事です。
白籏神社を望む交差点の近くに義経の首を洗ったとされる井戸が史跡として残って
います。暑い時期に奥州平泉から何日もかけて運ばれて来た義経の首が正しいものか
甚だ疑問ですが、それを腰越の海岸に捨てられ波によって打ち上げられ更に川を遡って
この地まで辿り着いたとは、川筋から見ても到底納得出来るものでは有りませんが、
ここにも義経善人説が現れている事は面白い事です。
間もなく交差点から白籏神社が見えてきます。前方のこんもりした森が神社です。
建久9年(1198年)相模の国一之宮寒川神社の御分霊として勧進され、後に宝治
3年(1249年)義経が祭神に加えられたとのことです。
県道44号線沿いに小さなお地蔵さんが有りました。女性の願い事なら何でも聞いて
下さると言う、おしゃれ地蔵です。
時折、涼しい風が吹きますが暑い日射しの下をひたすら歩きます。
藤沢宿から約一里の地点に右 大山 左 東海道 となる別れ道があります。
江戸時代の庶民が楽しみの一つとして又、信仰の対象として大山詣でが盛んに行われ
たようです。落語にも大山詣りが有ります。
近くに東海道と大山道が交差する四ッ谷辻に不動尊を祀る不動堂がありました。
間もなく一里塚です。
良く判りませんが庚申塔と二つ家稲荷です。
歩き始めてから一時間半、11時に藤沢市を抜け茅ヶ崎市にはいりました。
振り返ると当然のことながら藤沢市です。
茅ヶ崎市に入って間もなく、ここにも神奈川名木100選の大きなタブノキが
有りました。然し、ここは個人の家の中なのでリーダーさんが交渉して邸内に入れて
頂き間近に見学する事が出来ました。樹齢500年とのことです。
通りに出ても亭々と聳えています。
水嶋家はこの付近では由緒ある旧家のようで家紋の入った立派な門構えです。
上正寺の木陰で小休止です。
近くに牡丹餅茶屋の旧跡が看板だけ建てられていました。茶屋は跡形も有りません。
東海道の松並木は自動車が通る事で、その排気ガスと虫害で殆ど無くなっていますが
茅ヶ崎市には一部残っていました。海岸性のクロマツだけにアカマツよりは少し強いよう
です。
嘗ては、このような松並木が延々として続き、その下を草鞋に振り分け荷物を
背負った旅人がいろいろな思いを抱きながら京へ江戸へと急いだ事でしょうが、
今ではその面影を偲ぶ縁は全く見られません。
以前、スポーツ吹き矢第三回湘南オープンの会場となったTotoの工場がちらりと
見えて来ました。
藤沢宿から一里でここにも一里塚が有りました。
江戸時代に徳川幕府がお江戸日本橋を起点に東海道を一里ごとに道標を設置し、
この茅ヶ崎の一里塚は江戸から14番目になるとのことです。56Kmになります。
昔の飛脚なら一日の行程でしょうか?マラソンより少し長い距離になりますので
その日の内に大礒ぐらいまで走ったかも知れません。
暑い最中なので休憩と水分補給に留意したので予定より遅く12時25分に昼食
の場所にしていた茅ヶ崎中央公園に着きました。やれやれです。
13時まで思い思いの涼しそうな場所で休み、お昼にしました。
13時、出発前に準備体操をします。平塚まで後7Kmです。
午後は先ず、鶴峯八幡宮に寄り、ここでも神奈川名木100選の大銀杏を見ます。
参道は長い道でした。
八幡太郎義家が奥州征伐前九年の役に戦勝祈願として植えたとされていますので
1062年の事になります。948年になりますが本当でしょうか?
鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の大銀杏が今年の春に倒れましたが、それすら700年と言われ
ています。銀杏は丈夫な木とされていますが1000年も生きるとは鶴か亀並みです。
それでも言い伝えは大きければ大きい方が良いし、珍しければ珍しい程貴重なので
逆らわず信ずる事にします。
鶴峯八幡宮の参道を戻り、大鳥居の手前の民家の庭に弁慶塚が有りました。
頼朝は猜疑心の強い人間で義経め・弁慶に対して冷たい処遇をし、最後には藤原家の
お家騒動を利用して殺したものの、少しは良心の呵責に攻められてもいたのでしょう。
川崎の領主、稲毛三郎が亡妻の冥福を祈って相模川に橋を架け、その渡り初めに
頼朝が来てその帰りに平家とも義経・行家とも言われる亡霊が現れ、その為に頼朝の
馬が棒立ちとなり頼朝が落馬し、それが元で翌年頼朝が死ぬ羽目になりました。
ここの里人は頼朝の死より義経・弁慶を悼み弁慶塚を作ったと言われています。
この辺りも義経善人説になります。
頼朝の馬は、相模川に落ちたのでそれからこの川が馬入川とも言われるように
なったとの事です。
やがて冬に良く通る千の川の橋に出ました。何時も見る大鳥居が鶴峯八幡宮の入口
と改めて認識しました。
ここから北西に進みますので、この辺りでは富士山が左に見える事から南湖の左富士
と言われます。
左富士は、もう一カ所静岡県の吉原にもあります。
小出川は冬になると鴨類が集まり探鳥地となりますが、今日は皆無でした。
相模川を渡ると今月3日に第八回スポーツ吹き矢湘南オープンの会場になった平塚
アリーナが見えて来ました。
相模川では馬入の渡し跡を見ました。最近は総て跡しか残っていません。寂しい
ことです。昔の良い事も少しは残して貰いたいものです。
平塚市は茅ヶ崎市から相模川を渡る少し手前から始まります。いよいよ最終点に近く
なりました。
相模川の近くに丁髷塚がありました。
1838年、国府祭の夕暮れ東海道を帰る途中の寒川神社の御輿を担ぐ若者と
平塚八幡宮の御輿を担ぐ馬入村の若者が、些細な事から喧嘩になり双方に多数のけが人
が出ました。怪我人だけでなく馬入村の若者が寒川神社の御輿を相模川の深瀬に投げ
こんでしまいました。
時の代官である江川太郎左右衛門の厳しい取り調べで、下手人16人に打ち首を
命じましたが処刑の日に丁髷だけを切り落とし打ち首に替えたとのことで、その
丁髷を埋めて塚を建てた所を丁髷塚として今に伝わっています。
かくして15時半頃、平塚駅前に無事到着しました。
ここでも柔軟体操で今日一日の疲れをほぐしました。
解散後は早速、駅ビルのラスカでビールを飲み乾杯しました。
距離は約15Kmとのこと。帰宅してから見た万歩計は30188歩となっていました。
目出度し目出度しの一日でした。来月は平塚から二宮の予定ですが折悪しく酒匂川
の定例探鳥会の為、不参となります。再来月の二宮ーー鴨宮は何とかして参加したいと
思っています。
9月20日 お彼岸の入りです。田端の亡妻と両親の墓参をし、柏の亡妻の母親
の墓参と梯子しました。
昨日の体操のお陰で、まるっきり足腰の痛みや疲れはありません。
9月21日 午前中は体操教室です。午後、早めに出て藤沢へ行き買い物をしてか
ら鎌倉へ出て日本書紀の講座受講と思っていましたが、財布の中に入っている筈の
JCBとスイカが一緒のカードが有りません。きっと昨日着ていったシャツのポケット
とは思いますが気になるので一旦帰宅しました。矢張りクリーニングに出そうとして
投げてあるシャツの中に有りました。飛んだドジです。
9月22日 天気予報は暑さも今日までと報じていますが、信用しても良いので
しょうか?今まで何回も騙されて来ました今年の暑さです。
午前中は吹き矢に励みましたが汗だくでした。明日は彼岸の中日です。家の近辺の
曼珠沙華も今年は少なめです。
今回のメインテーマは東海道歩きなので、この辺で終わります。
読んで頂いた方には心から御礼申し上げます。