同窓会にまた行ったでー!

会えてよかった友・友・友、そして恩師。言えて良かったあの時ごめんねのひと言。次も絶対来ようね!

思い出したくなかった(バジル)

2007-11-13 20:16:59 | Weblog
nashika殿の一言で、封印していた記憶の箱の紐がとけ、
ぱっくりと蓋が開いてしまい、
同窓会を早めに切り上げて睡眠をとるはずが、
うなされたおかげで、午前1時には目覚めてしまい、睡眠不足となりました。

事の経緯や結末をどうしたかも、かなり詳しく思い出してしまいましたよ。
当人が忘れていることを、よくもまあ、あんなこと覚えてましたねえ。


実は謝りに行ったのです。
謝りに行くことが出来たのは、高校を卒業した後でしたけど。

確かに、やりました。
授業ボイコット。


水口先生の現代国語の授業でした。
物語の登場人物の心情を記述した内容の解釈。
私個人の解釈と、水口先生との解釈にズレがあったため、
授業を受けながらも、かなり、かりかりしていたのです。
特に色記述の解釈について、「ばら色」を水口先生が「赤」と言った時に
私の頭をよぎった言葉は、「こんな授業は、聞いてられない。」でした。

折りしも悪く、教室の窓側前方で、男性の数人が騒ぎだしたのでした。
その騒ぎの原因を、私は知りませんでした。

私の席は廊下側から二列目、一番後ろかそのひとつ前だったので、
比較的出て行きやすい位置でした。

その時、「俺の話が聞けんやつは、出て行け。」との声が響いたのです。
水口先生の左側の顔が見えていたので、
その言葉は私に向けられてはいなかったはずなのに。
私の頭と体が反応してしまったのです。

ばっと立ち上がり、教科書を思い切り閉じ、机にたたきつけ、出口へ。
扉を力いっぱいに開け、大きな音をたてて閉めました。
誰かが止めようとしてくれたみたいだったけど。
水口先生の「ほっておけ」という声を背中で聞いたのです。

それから美術室に行きました。
清水先生に「どうした?」と声をかけてもらいましたが、「ちょっと。」
と言っただけでした。
美術室前の廊下から、教室の方向をみると、何事もなかったように、
授業が続いているのが見えました。

そこから、実は私の苦しみが始まったのです。
この行動表現では、何に対する抗議行動なのか、伝わっていないからです。
抗議文を書こうと、ノートに山ほど何かを書いた記憶があるのですが、
上手く文面が繋がらなかったのを覚えています。
ただ、何かについて、許せないと書いていたはずです。
今は中身を思い出せなくなっていますが、書いたことだけは覚えています。

とりあえず、ボイコットしたのは、その授業だけで、
次の授業には教室に戻っていたはずです。
行動を起したのは自分だけだったこともあって、
自分の中で、正しい行動なのか、誤った行動なのかの言い合いをしていました。
結論は出ないまま、時は過ぎて、
そのことについて、友人も何も言わなかったと思います。

自分の中で解決を図ったのは、卒業した後になりました。

授業ボイコットの謝罪だけで、先生のご自宅を訪ねる勇気はありませんでした。
そこで、他の理由を考えたのです。
「農機具の研究」がネタでした。
電話で、訪問の理由を伝え、
日を改めて、カメラを持ち、ノートを携え、心臓が波打つ音を感じながら、
水口先生のお宅に向かいました。

私の中の本来の意味である謝罪は、一瞬で終了。
ごまかすように、「農機具」の話題にはいり、
いろいろと見せていただいたのです。
ついに、「農機具の研究レポート」も書き上げることは出来ませんでした。

それでも、私のなかの戦いは一応この時に終わって、記憶を封印したのでした。