同窓会にまた行ったでー!

会えてよかった友・友・友、そして恩師。言えて良かったあの時ごめんねのひと言。次も絶対来ようね!

不戦の誓い 今年もまた終戦記念日がやってくる・・・

2007-07-28 21:32:02 | Weblog
つまらないつぶやき⑬   今回はいつもよりチョット長めです

『私の人生、竹光秀正』(たけみつ ひでまさ)という自叙伝を読んだ。この方は戦前新聞記者から縁あって当時の上海公使重光葵の秘書官となり終戦直後まで重光に仕えた。日出町出身の旧制杵築中学の大先輩である。戦後は帰郷し農民運動に身を投じ、大分県・日本農業の発展・振興に尽力されたことでも有名な方で、旧制中偉人列伝にも登場する方だ。平成10年8月15日没84歳。自叙伝の前半部分は重光葵の正に手足となって働き、重光に随行した昭和の激動期が克明に語られている。主従の関係性から主観的な部分も多いが、記述から重光葵の人物像が伺い知れる。

重光葵(しげみつ まもる)という人、杵築市八坂小学校区の方なら恐らく小さい頃から家庭で、学校で親や教師から偉大なその人のことをよく聞かされたことだろう。私は同じ杵築でも東小学校区だから重光葵という名前は高校になって初めて知った気がする。

杵築高校校舎の前庭の石碑『志四海』にその名前があった。旧制杵築中学の第3期生であり、戦前東大法科を卒業し、外交官、外務大臣、終戦時の全権特使、A級戦犯、外務大臣、改進党党首・・・と数奇な運命を辿った大先輩である。外交官時代上海で或る式典に臨席した折、今でいうテロ爆破事件に見舞われ、右足を太ももから失い以降は鉄の義足と松葉杖という不自由さを強いられたが、昭和のはじめ正に時代が大きく動いた時期に外交の精通者・トップとして国家の方向性に大きな影響を与えたといわれている。彼の国家感とその思想、持ち前の不倒・不屈、強靭な精神と行動やバランス感覚は終戦後も要職に復帰されたことから分かるように、当時の人々の支持や共感を得ていたことが伺える。

終戦時、天皇と政府の全権として重光外相、大本営代表として陸軍の梅津参謀総長(この方も大分県人)の二人が横浜港に入港した敵艦ミズーリ号艦上で無条件降伏文書に調印したことはつとに有名(重光外相が調印に使用した万年筆は秘書官の竹光氏から直前に拝借したもので現在は安岐町の重光記念館に所蔵)である。戦前・戦中一貫してアジアの民族の独立、自主・自立と和平を唱え、開戦・交戦へ傾斜しようとする周囲に対しても敢然と論陣をはり、軍の大東亜共栄圏構想とは一線を画し、昭和天皇からも厚い信認を受ける中、日本のブレーキ役を担ったといわれている。

あまり知られていないが終戦直後、占領軍のサザーランド参謀長を中心に日本に軍政を敷く(主権を認めず天皇制も排斥するということを意味し、ポツダム宣言を逸脱する内容)ことが連合国側で画策されているという情報を聞きつけるや、そのことは日本の領土分割統治を意味するためそれを絶対阻止しようとして、天皇を中心とした文民統制をマッカーサーに直訴しアメリカの利害も関連してかこの訴えが受け入れられ、その結果現在の日本領土の保全が叶ったといわれている。竹光氏は重光のこうした尽力にもっと光をあてるべきだと述べている。

戦争終結は御前会議において天皇の聖断により決定されたがこれに至るにあたり、政府と軍の代表者の舞台裏でのやりとりが述べられている。最終的には14日の御前会議で聖断が下され、玉音放送が収録され翌日15日に無条件降伏を受け入れたとされている。

当時の御前会議出席者6名の内3名が大分県人であった。阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍令部総長。この3名は軍のトップであることから無条件降伏受け入れ反対、本土決戦やむなしという立場をとっていたとされている。重光は当時の東郷外相(重光の後任)や米内海軍大臣、木戸内大臣など宣言受諾派とともに説得工作を重ねて終戦に持ち込んだといわれている。終戦は大分県人の手によって執り行われたといういわれはここにある。
実は豊田副武(とよだ そえむ)軍令部総長も旧制杵築中学出身。重光葵の一つ先輩の第2期生である。この方は重光とは対照的に終始軍拡路線を推進する立場をとったそうだ。

重光・豊田より先に紹介すべき人、二人の先輩で海軍大将となった堀悌吉(ほり ていきち 旧制杵築中学第1期生)がいる。時の海軍はエリート集団といわれたが、その海軍きっての秀才・逸材といわれた。山本五十六とは海軍同期で開戦前当時海軍では艦隊を増強すべしという勢力と開戦を回避するためにも英・米が提案する軍備縮小条約を受け入れるべきだとする勢力に二分されていた。堀は条約派の先頭に立って和平を唱えた。結局艦隊派が勝利しこののち堀は予備役にまわされた(失脚)といわれるが、この処置に山本は艦隊ひとつ失う以上の海軍自体の大きな損失であり大いに落胆したといわれている。(文芸春秋8月号より)

重光葵が終戦の日の心境を詠んだ (※意味が分かり解説できる方は教えてください)
 
 戦破一年回顧新  
 進乎玉砕退生民
 山川焼土採狼迫
 聖断巍然泣万人

『竹光君、日本が負けたことを厳粛に受け止めなければいけない。そして、これから新しい国家建設に邁進しなければならないよ』と語りかけたという。

日本には外交がない、政治はアメリカの言いなりだと揶揄され、自暴自棄になった感のある日本。時代が違うとはいえ重光葵が一層輝いて見えるのは何故だろうか。決してあの時代がよかったわけではないが、重光がいう新しい国家の建設ができたであろうか。

戦後重光は英米からはリストに挙げられることはなかったが、名簿締切期限ぎりぎりにソ連からA級戦犯として指名された。これには以前重光が外交官時代今の中ロ国境での紛争処理をめぐりソ連が重光に対して個人的な私怨があったとされる。A級戦犯として服役後釈放され再び外相となり、国際連合に加入する際に日本を代表して演説し、先勝国からも拍手喝采を浴びたといわれる。重光の人物像や戦前・戦中における和平への思いや行動は連合国側も十分に認めており、A級戦犯にしたこと自体も間違っていたとの認識はあったといわれている。

戦後教育を受けた我々世代、歴史教育では明治期までは何となく時系列に日本の歴史を学んだが、この60年前の昭和の激動期については、ほとんど学んだ記憶がない。『戦争は絶対にしてはならないもの』で『原爆に見られるような悲惨さしかもたらさないもの』『憲法で不戦を規定している』と教えられた。

60余年前、旧制中学出身のエリートであった方々が昭和の正に激動期にこの国の舵を右に左に取りながら命がけで生きていた。信念・理念に従い生きていたことは忘れまい。

不戦の誓い 暑い夏がやってきた。

○文中、大先輩の方々の敬称を略させていただいたこと。記述の内容に誤り・史実と異なる場合はお許しいただきたい。

○題字杵築の文字は110周年記念のために作られたものを啓発の意味から掲載させていただいた。関係者の方のご理解をいただきたい。

●おしらせ
8月4日(土)15:30よりNHK総合で『心に響け いのちの授業』が再放送されることが、山田泉さんご本人からこのブログ宛におしらせいただきました。是非ご覧下さい。夏の巻で参加者の方々に感想を伺います。(・・・え?それなら欠席する、それは冗談です。)ご本人からわざわざ書き込みいただいたこと心から感謝いたします。



夏の巻、潜行しながら計画は進行中・・・おしらせは間もなくです。 

2007-07-27 19:30:52 | Weblog
同窓のみなさん

春の巻から3ヶ月が過ぎた。この間空梅雨かな?と思ったところにドカッと雨・雨・雨、おまけに台風がこちら(大分)に向かって来るわ・・・で、新潟の大地震、一転今度は猛暑・酷暑か!自然の脅威に恐れ入るばかり。

春の誓いを実行しようと、大分・別府・杵築のさわやかネットワーク?の方々が、8月25日(土)を開催日にと現在同窓の方々に呼びかけています。時間・場所(たぶん今回は大分市内です)・会費など詳細は調整中です。
お正月に来れなかったので、今回は参加しますよといって春の巻に姿をみせていただいた方もいらっしゃいました。そこで、お正月も春も行けなかったけど、夏の巻には出るよ!といってもらえる方、大歓迎です。今から日程調整してみてください。

折角お盆に帰省するのに合わせてもらいたいという方、今回はごめんなさいね。

ということで、正式なご案内はもうしばらくお待ちください。お楽しみに。

 

水、それは限りある資源。これ以上外国の水を略奪してはならない・・・と思う。

2007-07-27 16:59:27 | Weblog
つまらないつぶやき⑫

食べ物は水のかたまりといわれている。木材も同様である。水に恵まれた日本は、水のかたまりである食料や木材を際限なく大量に輸入してきた。主な相手国は水の不足する中国やアジア諸国である。旱魃に悩む中国は今地下水の枯渇が全土を覆い深刻な事態に見舞われているという。こんな不自然なことがあっていいのだろうか。

○ユニセフなど世界機関の調べでは
①世界の人口の60%を占めるアジア地域には世界の水資源の36%しか存在しない。
②安全な飲料水にアクセスできない人は7億人。
③基本的な衛生設備(トイレ)のない人が19億人。
④水災害による死者の80%以上がアジア・太平洋地帯に集中。
⑤アジアの主要な穀倉地帯であるインドパンジャブや中国北部の平原では、年に2~3メートルも地下水位が低下。
⑥ヒマラヤの氷河は他の氷河より早い速度で消滅。

・・・想像しても想像できないが、事態は確実に悪化の方向に進んでいるらしい。
世界水フォーラムが主催するアジア・太平洋水サミットがこの年末に別府で開催される。フォーラムでは限りある資源・水をめぐる共通課題を克服するため地道な活動を続けている。

『バーチャルウォーター(仮想投入水)』何のこと?何とか還元水の話ではない。
食料や工業製品をつくるために必要な水量のことを専門家はこう呼んでいるらしい。
牛一頭育てるための飼料の生産にも大量の水が消費されている。食料自給率が40%を切る日本では穀物や肉類などの多くを輸入に頼っている。言い換えれば世界の水が食肉や穀物などに形を変えて日本に輸入されている。その仮想投入水の量は年間640億立方メートルになり、何と日本人が生活用水として使う5年分になるという。調べたのは杵築高校科学部・・・ではなく、東大の研究チーム。森林資源の輸入まで換算するとこんなものではない。

例えとして適当ではないかも知れないが、吉野家の牛丼、確かに根強い人気がある。BSE禍で一時供給がストップしたが、ここにきてアメリカの圧力に屈した形で輸入牛肉の検査基準を緩和しようとしているので吉牛の完全復活もそう遠くないか・・・。青春時代食べたあの味は当時の思い出とともに蘇る。まさに郷愁の味。初めて食べたのは25年位前、かけ出しの営業マン時代、確か新橋駅烏森口だったか。こんなに旨いものがあったのか!

あの牛丼一杯に乗った牛肉生産のためには何立方メートルの水が必要なんだろうなんて考えてみたこともない。しかし、これからはこのことも考えてみなくてはならない時代なのだろう。

もっと快適な、もっと効率的な、もっと、もっと・・と、よりよい衣・食・住を求めて我々日本人は国境を乗り越えて自分たちの欲求を満たしてきた。しかしその反動?綻び?
がいたるところに出現している・・・
時計は戻せない。将来に向けて何らかの手を打つことが必要なのだろう。

水、それは限りある資源。これ以上外国の水を略奪してはならない。

今回は公共広告機構のようなつぶやきになってしまった。










伊吹木、ふたたび (みたびもあるかも?)・・・・・

2007-07-13 23:22:17 | Weblog
つまらないつぶやき⑪

恵みの雨も度を過ぎれば困ったものだ。おまけに台風まで連れてくるとは・・・
50ミリ/時間という雨は年に何度も遭遇するものではないが今年は別格だ。
運転中に見舞われると身も心も参ってしまう。正に降参状態。アスファルトの水流は瞬く間に川となり運転するその先が見えない。

『お前もっと頑張れ!早く水を掻け!』フロントワイパーに呟く。ワイパーの方は、ギィーギィーと普段発することのない音を立てながらそれなりに頑張っている姿を見せようとする。(ワイパーに自分の姿を感じつつ)機能に課題があるのだろうか?事態は一向に改善されない。平成7年に新規登録してから早12年を経過した愛車だ。

道すがら山際から真新しい茶色い土色の水がチョロチョロと染み出しているのを見つけては、ハッとする。もしや崩れてくるのでは?7月に入りこんな天気が続いている。
こんなこと書くときっと遠来の友が心配するだろう。ご心配の方は、遠き故郷に早めのご一報を・・・

そうだ『伊吹木』だった!年取ると前置きが長くなる。(5W1HをA4の紙1枚にまとめろ!先に結論を書けよ!論点は簡潔に!・・と先輩から教えられたことを思い出した。)

伊吹木それは過敏で多感な時代の物語である。先般この話題に触れたとたん多くの友が反応した。長らく眠っていたアドレナリンが体中波打つように駆け巡ったかの如く?みなそれぞれの『わが青春』に真剣だったことが見て取れた。こちらの真剣とあちらの真剣、向こうの真剣・・・光となり輝きを放っていた大切な大切な当時の物語である。

我々世代の真剣さはタダの真剣ではない。そこには真面目さや素直さが十分に、しっかりと感じ取れる。あー真面目な青春。人生半ばを通り過ぎて世の中の仕組みが何となく分かった今、『真面目な真剣さ』がことさら新鮮に思えるのは何故だろうか?余計な説明はいらない。友はみな、そのことが分かっている。


暗雲状態です。大丈夫かな?

2007-07-09 22:43:46 | Weblog
このところ大分は地震、大雨と自然災害が続いていますが、大丈夫ですか?
遠くに住んでいると気にはなりますがおいそれとは帰れませんので、ニュースと電話で様子を聞くことしかできません

わたしもブログに参加をしたのですが、本当にネタを探すのに苦労しますもともと文系よりも理数系の好きな私が参加したのですから、題を決めても話が進まずパソコンの前に座っても投稿をあきらめてしまう状態です皆さんからお題をいただけると助かります。何ヶ月かで泣き言が始まってしまう私ですので、プログおいさんの実行力・文章力に敬服します


「素直な心」
日曜日の朝、時々ラジオで「全国こども電話相談室」を聞くのですが、8日は子供たちの俳句でお題は「夏」でした。
聞きながらこのまま素直な心のまま大人になれる世の中だったら今みたいに殺伐とした世にならないかな?なんて考えています。


きょうのすけ(1年) 「進まない 犬かきになる 平泳ぎ」

ゆうか(4年)    「夏休み 部活もプールも 楽しみだ」

そういちろう(4年) 「亡き祖父が ホタルになりて 会いにきた?」
ことの(2年)    「ホタル狩り 爺かと思って 泣いちゃった」 
    ※ そういちろうくんとことのちゃんは兄妹です

たろう(6年)    「風鈴に チロリチロリと 風通る」  ※六輔賞

もとき(4年)    「ピクニック 雨上がりの後 歌の虹」

まりん(6年)    「夏祭り 浴衣美人が やって来る」

こうたろう(中1)  「七夕の お願い事は 風邪なおれ」

なおみ(5歳)    「朝顔の 種を植えるの 忘れてた」
            「虫かごを 出してきたけど 空っぽだった」
栄六輔(放送タレント) 「虫篭の 外に居るのが 鳴いている」

あおい(3年)    「綿飴が フワリフワリと 出来上がる」

ゆかり(3年)    「アゲハチョウ みかん類に やって来た」
            「アゲハの子 歩いて食べて 大人になる」
            「夏休み いつか必ず 海行くよ」
黒田杏子(俳人)  「磨崖仏 大紫を 放ちけり」

たかひろ(中1)   「曾ばあちゃん 桃と線香 良い匂い」 ※杏子賞

みれい(6年)    「セミの声 心に響く 夏の歌」


今日は愚痴ってしまいごめんなさい。次回は頑張ります




『伊吹木』のことを覚えていますか?私はすっかり忘れていました・・・

2007-07-01 12:25:48 | Weblog
つまらないつぶやき⑩

『伊吹木』が手元に3冊。第14号、第15号、第16号と続いている。実は先日大阪の町○君から送られたものだ。同窓会を盛り上げようと昨年このブログを立ち上げてからというもの、ブログおいさんのこと手持ちのネタや注目してくれそうな話題がその内尽きるだろうから・・・という温かい手を差し伸べてくれる多く(?)の友が現れた。ブログおいちゃんや○○さん、□□君である。関西地区では彼、町○君である。

有難い。ほんとうに嬉しい。中学校も違うし、高校でも同じクラスになったこともなく、彼は理系クラスだし、それこそ話した記憶など全くなかった。実はお正月の同窓会当日も『やあ!』『おう!』と挨拶を交わした程度で隣に座って会話したわけでもない。高校時代の記憶として、笑顔それもニンマリした彼の表情は今も残っている。きっと物事に動じない、寛容のキャパシティが大きな男、そんなイメージを持っているが外れているだろうか?

人の評価ができるほどプログおいさんも人間が完成していない、まだまだ発展途上なのでこの辺で話題を戻したいが、卒業して30年余、新たに芽生え進化しつつある友情ネットワークに心から感謝したい。

さて『伊吹木』に戻ろう。第16号、これは我々が卒業を前にして編集されたものだ。懐かしく読ませていただいた。全部読んだ。当時こんなにも多くの友が作成に関与し、こんなにも真面目に取り組んだのかと正直驚いた。『敬服した』という方が正しいかも知れない。巻頭言に高橋校長のことばが載っている。教育者として我々卒業生への含蓄のあるはなむけが述べられている。さすが高橋校長だ。

目を下に移すとそこには伊吹木編集で一番苦労したであろう中○淑○さんの編集委員長としてのことばがあった。著作権の課題もあるが是非ここで紹介させていただきたい。

「伊吹木??今年はできるの?」人から言われるまでもなく私自身が不安に思い、悩んでいることだった。就職が決まって、あとは伊吹木だけに全力を尽くそう!と思ったあの日以来数ヶ月・・・自分の考えの甘さを今更ながら感じる毎日だった。本が完成した時を〝光〟とするならば、編集の段階は〝影〟の部分である。

私はといえば、その光の部分に憧れて、影の部分の難しさに気づかなかったと言える。まあいいさ、悩む事も青春なんだ、とわけのわからない理屈をつけて今日もいそいそと編集室に向かう。

編集という仕事をして感じること、『文章に表わす』ことの難しさである。言葉の中に心が込められ、そしてまた一つの作品ができあがる。その喜びを味わえる人が一人でも増えることを祈って・・・!

廃れたる園のみどりに ふりそそぎ、ふりそそぎ、にほやかに小雨はうたふ・・・・

白秋の詩に嘆息をつき、今更ながら自分の微力さを嘆く。この本が一人でも多くの人に読んでもらえますように・・・と編集委員長は結んでいる。

卒業そして大学受験を目前に控える中、クラスの授業が終わり各自が締め切り期限というプレッシャーを背負いながら編集室に駆け込んでいく姿が想像されます。編集委員長さんはいつも一番先に編集室に到着し皆さんを迎えていたのでしょうね。

自分の足跡を探したいという思いで何度もページをめくってみました。作品の投稿、クラスごとの一人ひとことなど端から端まで目を皿にして探せども、当時の私は全く関与していませんでした。30年経過して、編集に苦労したみんなに、原稿を何度も修正し苦心の末に投稿した方々に申し訳ないような気持ちになりました。

そこで、この場を借りて伊吹木編集委員長さんに心からお礼を言いたい。