蛤御門の変 - 「八重の桜」ゆかりの地 探訪記 -

2013-03-25 23:04:12 | まち歩き
NHK大河ドラマの「八重の桜」、いよいよ動乱の時代に入りました。
先日3月24日(日曜)の放送は、「蛤御門(はまぐりごもん)の戦い」でした。

実を言うと、私は30年来の大河ドラマファンなのです。
日本史への関心も、小学生の時に観た「おんな太閤記」に刺激されて始まり、そして現在に至っています。
しかし、前作・前々作の大河ドラマ(タイトルはあえて触れませんが・・・)は非常に残念な内容で、日曜8時台はテレビの前から久しく遠ざかっていました。

けれど、今年の「八重の桜」は、たいへん面白くて毎回楽しみにしています。
原作・脚本を手がけられた山本むつみさんは、時代劇・現代劇を問わず、さまざまなジャンルで活躍されている方です。最近では、NHK連続テレビ小説 「ゲゲゲの女房」が大ヒットし、社会現象を引き起こしました。
その実力は、「八重の桜」でも遺憾なく発揮されているようです。
実際、会津藩の立場から見た幕末史というのは結構難しいテーマだと思いますが、「八重の桜」は、激流のような歴史の中での登場人物の心の動きが巧みにドラマ化されている。そこに面白さの秘訣があるように思います。


さて、蛤御門の戦いですが、一般には「蛤御門の変」又は、「禁門の変」と呼ばれています。

これは文久3年(1863)8月18日に会津藩・薩摩藩が中心となって長州藩一派を京都から追い落としたことに端を発しています。
明くる元治元年(1864)6月半ばより、長州藩は藩主親子および京を追われた三条実美ら七卿の赦免嘆願として、家老・福原越後率いる3000人の兵で京に迫ります。そして7月19日、御所の蛤御門を守備する会津藩兵に長州藩兵が攻めかかり、戦いが始まりました。長州藩兵は勇猛果敢に戦いましたが、薩摩藩が会津藩の加勢に加わったため、やがて壊走します。

なお、この戦いで京の町には兵火がかかり、三日間燃え続けました。
この火事で2万8,000余戸が焼失したといわれています。

ドラマのラストも、焼け野原になった京の町を見て絶句する八重の兄・山本覚馬、そして焼け出され、あるいは家族を失った京の町衆が会津藩士に恨みの目を向けるシーンで終わっていました。


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現在の蛤御門です。
この写真では分かり難いですが、柱には「蛤御門の変」の時の弾痕が今もたくさん残っています。





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会津藩本陣が置かれた金戒光明寺の裏手には、会津藩殉難者墓地があります。


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会津藩殉難者墓地にお参りして、墓碑銘を見せて頂きました。
そこには元治元年七月十九日の文字が・・・。
ここには「蛤御門の変」で戦死した多くの会津藩士が眠っています。