もうひとつの「蛤御門の変」 / 掃討戦と大山崎大火 - 「八重の桜」ゆかりの地 探訪記② -

2013-03-29 01:53:25 | まち歩き
前回のブログでもお話しましたが、「蛤御門の変」の戦闘では、京の町に兵火がかかり、2万8,000余戸が焼失しました。
しかし、兵火は京の町だけに留まりませんでした。
京の町から10キロメートル余り離れた大山崎宿(現・京都府乙訓郡大山﨑町)も戦場となり、兵火により大きな被害を受けました。



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大山崎宿は、摂津国と山城国の境界に接しており、西国街道の宿場町でした。





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この地は、天王山と淀川に挟まれた隘路になっていて、京へ向かう関門として軍事上の要衝でもありました。
天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長を倒した明智光秀と、信長の弔い合戦をスローガンに掲げる羽柴秀吉が激突した「山崎の合戦」は有名です。
この戦いに因み、「天王山」の名は、決戦の代名詞として使われるようになりました。





元治元年(1864)6月半ば、長州藩は藩主親子および京を追われた三条実美ら七卿の赦免嘆願として、家老・福原越後率いる500人を主力に、総勢3000人の兵で京に迫ります。
そのうち、大山崎宿には、久留米水天宮の元宮司で、長州軍の幹部になっていた真木和泉守保臣が率いる兵が布陣しました。

それでは、長州藩兵の布陣の様子を見てみましょう。




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大山崎宿の中心部にある離宮八幡宮です。
平安時代の初め、清和天皇が夢のお告げにより、九州・宇佐八幡宮より神霊を奉じて祀ったという由緒のある神社です。
大山﨑宿に布陣した長州藩兵は、ここを屯所として利用しました。

大河ドラマ 「八重の桜」では、開戦前に八重の兄・山本覚馬が町人姿に扮して、この地を偵察するというシーンがありました。
この話は「八重の桜」のオリジナルかも知れませんが、ドラマとして面白い展開でした。




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天王山の裾の高台にある宝積寺です。

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奈良時代に聖武天皇が、行基に命じて建立したと伝わる古寺です。
長州軍はここにも布陣して、兵糧や諸物資を集積していたことが史料よりうかがえます。




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7月19日、嵯峨・天竜寺に布陣していた家老・国司信濃、来島又兵衛率いる長州藩兵が、御所の蛤御門を守備する会津藩兵に対し攻撃を仕掛けます。
長州藩兵は勇猛果敢に戦いましたが、やがて薩摩藩が会津藩の加勢に加わったため、壊走しました。

敗れた長州軍は、大山崎宿を経て、国元に落ち延びて行きましたが、真木和泉守保臣らは宝積寺に籠って徹底抗戦を試みます。

7月21日、幕府軍は、会津藩兵を主力とする掃討軍を大山崎宿に差し向けます。
その攻撃は、まず会津藩配下の新撰組が町に放火し、その上で藩兵が砲撃を加えるというものでした。

この攻撃により、離宮八幡宮をはじめ多くの寺社が焼失し、町屋も150軒が焼失したと伝えられます。



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真木和泉守保臣は、抗戦の不可能を悟り、真木以下17名が宝積寺で自刃しました。
17名の墓は、明治維新後に天王山の山腹に改葬され、「十七烈士の墓」として今に伝えられています。


大山﨑宿での掃討戦によって、「蛤御門の変」における戦闘は終結しました。
しかし、町の蒙った被害は甚大なもので、大山﨑の近代の幕開けは、その復興から始まることになりました。