大坂城 - 桜ちらほら咲き始める中、いにしえを想う -

2013-03-23 21:34:23 | まち歩き
大坂城 (大阪府大阪市)




大阪でも桜がちらほら咲き始めました。
例年より、1週間ほど早い開花です。



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大坂城の桜が満開を迎えるのは、月末頃になるそうです。


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今年もお花見で、全国各地のお城に多くの人が訪れることでしょう。
桜の季節は、一年で最もお城が脚光を浴びる時と言えるのかも知れません。



さて、日本のお城には桜がつきものというイメージがありますが、江戸時代以前、つまりお城が「お城」として機能していた時代には、桜よりもむしろ梅の木が植えられていました。
梅は実を収穫して、梅干を作ることが出来ます。保存性の良い梅干は格好の兵糧となります。
梅の木を植えるということは、平時より有事に備えるという、武門の習いに適っていたのですね。



とは言っても、やはり桜の木も観賞用に植えられていました。
ここ大坂城の本丸大手門は、その名も「桜門」と言います。


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この位置に構えられた門が「桜門」と呼ばれた歴史は古く、豊臣時代の大坂城本丸を描いた中井家伝来の「本丸図」にも「桜御門」の名が見えます。
また、他の文献からは、門前に「桜の馬場」があったことが確認できます。
その名の示す通り、この一帯には美しい桜並木があったのでしょう。


ところで、今の大阪城公園に存在する城は、豊臣家を滅ぼした後に徳川幕府が装いも新たに築城した新「大坂城」です。
本丸は豊臣時代の地表面に、最大で約10メートルの盛り土をして、最新技術を用いた高石垣で周囲を固めています。
このことは、徳川幕府は豊臣家の栄華を抹消するため、「豊臣時代の痕跡を地下に埋没させた」というように解釈されています。

しかし、「桜門」の名前が引き継がれているのはどうしたことでしょうか。
さらには、本丸北側の一段低い曲輪の名前は「山里曲輪」、そこから本丸外への出入り口であった橋の名前は「極楽橋」というように、豊臣時代の名称はあちこちに引き継がれています。

むしろ、秀吉が築いた天下の名城・大坂城の名とともに、「桜門」、「山里曲輪」、「極楽橋」という個々の建造物の名称までがブランド化しており、新たな支配者となった徳川幕府もそうした名称を引き継がなければ権威の証にならなかった。というのが真相ではないでしょうか。