国府山城を歩く。  ~ 自然のままの山城に、官兵衛の意気込みを見る ~  <「軍師官兵衛」ゆかりの城⑨>

2014-07-02 00:07:10 | うんちく・小ネタ
国府山城  こうやまじょう  (兵庫県姫路市)




JRに乗って大阪から姫路に向かう時、列車は最後に大きな川の鉄橋を渡ります。
姫路市街の東を流れる「市川」(いちかわ)です。

右手の車窓、つまり市川上流の風景の斜め前方に、不意に姫路城の天守が出現します。
なかなかに演出的な登場で、旅情を楽しませてくれます。
天守は次第に視界の中で大きくなってゆきます。
市川を渡り終えたら、まもなく姫路駅に到着です。

ところで、この市川の鉄橋から見る姫路城とは正反対の方向に、もうひとつの城跡があります。
国府山城(こうやまじょう)です。


 *****


天正8年(1580)羽柴秀吉は三木城の別所氏を滅ぼし、御着城の小寺氏を駆逐して、ついに播磨国を平定しました。
秀吉の次なる目標は、備前国・備中国(ともに現在の岡山県)への進出です。
そして、いよいよ中国地方の覇者・毛利氏との決戦に臨むことになります。

播磨国は、その軍事作戦の基盤として重要度を増大させました。
黒田官兵衛は秀吉に対し、その本拠地を姫路城に定めるよう強く勧めます。
そして、秀吉に姫路城を譲った官兵衛は、自らは家臣団を率いて国府山城に移り、ここを居城としました。


 *****


B1

市川の河口付近から見た国府山城です。
標高102メートルの山上に築かれた山城です。

甲山城、功山城とも表記されますが、いずれも「こうやまじょう」と読みます。
また、城が立地する市川河口の東岸一帯の地名から、妻鹿城(めがじょう)とも呼ばれています。


 *****

B12

近づいて見ると、山のあちこちに岩盤が露出し、絶壁を成しているのが分かります。
西麓は、満々と水を湛えた市川が迫り、天然の要害です。


 *****

B17

南麓の登山口脇にある城址碑です。
「妻鹿城址」と記されています。


 *****

B141

また、城址碑の近くに城跡の平面図を記した説明板が設けられています。
国府山城の縄張が詳細に記されています。
(ただし、建物のイラストはあくまでイメージです。)


 *****

B51_2

山に登ってみましょう。
途中の傾斜は急ですが、山上は比較的広々としています。
尾根道に沿って、人工的な削平地が段々と築かれています。
城の曲輪の跡でしょう。


B77

しかし、自然地形を粗くならしただけの平坦地です。
石垣はもとより、土塁や虎口(城門)といった防御のための普請の跡も見られません。

国府山城は、南北朝時代の14世紀前半、赤松氏に属して活躍した妻鹿孫三郎が築いた城に始まると伝えられています。
南北朝期の山城は、楠木正成の千早城のように険しい山の斜面そのものを防御力とし、尾根筋には簡素な平坦地を造って番小屋を建てた程度のシンプルなものでした。
現在確認できる山上の遺構を見る限り、官兵衛はこの城にほとんど手を加えていないようです。

官兵衛の時代には、戦いには鉄砲が大量に投入されるようになっていて、城の構造もその対応が不可欠となっていました。
南北朝時代の城などは、すっかり時代遅れで、万一籠城戦ともなれば圧倒的に不利です。
なぜ、こんな状態のままにしておいたのでしょうか?


おそらく、官兵衛はこの城で籠城戦を展開することは、全く考えていなかったでしょう。
この時の官兵衛の考えは、以下の3つに集約されていたのでしょう。

(1)播磨の支配体制が変わったことを国中に認識させよう!
  秀吉が姫路城に入城し、官兵衛は退く。これほど分かりやすい手は無い。

(2)情報収集で秀吉を支えよう!
  官兵衛の強みは、情報収集と分析力。秀吉が居る姫路から近くて、情報収集に適した地は、市川河口の港町・妻鹿が最適。

(3)必ず勝ち進む!
  勝ち進んで全国各地に展開してゆく。いつまでも播磨には居ない。 


つまり、妻鹿の国府山城は、官兵衛にとって作戦途上の暫定的な拠点だったのです。
そのため、城は家臣団とその家族を短期間収容する屋敷地であればよく、本格的な城普請は眼中に無かったのでしょう。



 *****

B97

国府山城から南を見る。
市川河口と播磨灘。
物流と交通の要衝で、ここが人、モノ、情報が集まる地だったことが納得できます。

 *****

B59

国府山城から北を見る。
姫路市街の向こうに姫路城が見えます。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿