福岡城を歩く。  <隠居屋敷の跡で、官兵衛と妻・光のスローライフを垣間見る>  ~ 軍師官兵衛ゆかり

2014-08-06 01:43:43 | うんちく・小ネタ
「第31回 全国城郭研究者セミナー」で福岡市に行った時のことです。

福岡空港も博多駅も、人の集まるあらゆる場所は、大河ドラマ「軍師官兵衛」のポスターで飾られていました。
さすがに、熱の入れ方が違いますね。
また、黒田家ゆかりの地の案内地図やパンフレットなども万端整えられ、観光案内所やホテルのフロントなど、要所要所に置かれていました
官兵衛ブームの追い風で、この夏、大勢の観光客が福岡を訪れているようです。




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福岡城  ふくおかじょう    (福岡県福岡市)




福岡城は、官兵衛の長男・長政が築いたお城です。
江戸時代を通じて、福岡藩主・黒田氏の居城でした。


長政は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で徳川家康の東軍に属して戦い、その戦功で筑前一国52万石を与えられました。
筑前国には、既に名島城(なじまじょう/福岡市東区名島)がありましたが、海に突き出した岬に立地しており、城下町の建設に限界がありました。

そこで、官兵衛・長政父子が着目したのは、中世以来の商業都市・博多の西側にある福崎(ふくさき)の地でした。
ここに新たな城と城下町を築き、博多と一体となった政治・経済の中心地とすることを考えたのです。
そして、地名の福崎を「福岡」と改めました。
これは、官兵衛の祖父・重隆が諸国を流浪中、備前国の福岡で家運を開いたという由緒に因むとされます。

慶長6年(1601)より築城を開始、足掛け7年を経て完成しました。
既に隠居して、如水(じょすい)と号していた官兵衛も、この城内に屋敷を構えて、晩年のひとときを過ごしました。


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さて、全国城郭研究者セミナー2日目の朝。

博多駅前のホテルを少し早めに出て、福岡城に立ち寄ってみることにしました。
しかし、あまり時間も取れないので、大手門に相当する「下之橋御門」(しものはしごもん)付近に絞って歩いてみることにしました。



B3

地下鉄の「大濠公園駅」で下車し、5番出口から地上に上がると・・・
そこは、もう福岡城の堀端です。



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B17

堀端を東へ歩くと、下之橋御門が見えてきます。
見事な眺めです。

なお、二重櫓は本来は福岡城内の別の場所に建っていたものです。
大正時代、一旦城外に移築されました。
昭和31年(1956)に再び福岡城の下之橋御門の脇に移築され、現在に至っています。


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B66

福岡城全体の中で、下之橋御門はここに位置します。


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B40

それでは、この門から城内に入ってみましょう。
左折れの枡形になっています。


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B57

正面から見た下之橋御門です。
平成20年(2008)に復元整備されたので、まだ新しく見えます。

この門が建てられたのは、江戸時代後期の文化2年(1805)でした。


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B3

明治時代に上部の櫓が撤去されました。
そして、この写真(平成9年撮影)のように、門柱と梁の上に直接屋根が載る薬医門(やくいもん)に改築されました。
それでも、福岡城内で元の位置のまま建つ唯一の城門遺構として、福岡県指定文化財となっていました。

しかし、残念なことに平成12年(2000)に不審火で全焼してしまいます。



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B55

その後、平成18年(2006)より復元整備に着手。
平成20年(2008)江戸時代後期に建てられた櫓門の姿がよみがえりました。

焼損した部材も、極力修復して再利用しました。
そのために竣工まで年月を要したそうですが、文化財保存において、この真摯さは立派です。



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B82

内側から見た下之橋御門です。

門をくぐると、今度は右折れの枡形になっています。
左に右に、かなり厳重な門です。



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B66

さて、下之橋御門を入った先に、小さな丘が有ります。
この丘の上に、官兵衛の隠居屋敷であった「高屋敷」(たかやしき)がありました。

屋敷は質素な侘び住まいでした。
丘の周囲には石垣が築かれていませんが、あえて自然に近い風情を残したのでしょう。



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B900


官兵衛の隠居屋敷跡に建つ石碑です。
「御鷹屋敷」と表記されています。


官兵衛は晩年のひとときを、この隠居屋敷で妻の光(てる)とともに暮らしました。

この時期、黒田家一族が催した「連歌百韻の会」(れんがひゃくいんのかい)で、官兵衛が
「朝夕の けぶりもかすむ 浦半にて」
と詠むと、光は
「長閑(のどか)に風の かよふ江のみず」
と続けています。
遠く海を眺める隠居屋敷で、ゆったりとした日常を過ごす官兵衛夫妻の姿が見えて来そうです。

また、屋敷には、家臣の子供たちが出入りし、官兵衛もその相手をするのが楽しみだった。
というような、微笑ましい話も伝わっています。
その他、庭で薬草の栽培をしたり、お供を一人だけ連れて町を散策したり・・・・
まさにスローライフを楽しんだ官兵衛でした。

若き日に志を立て、智謀の限りを尽くして秀吉の天下取りを支えた官兵衛は、天正17年(1589)に長男・長政に家督を譲って隠居していました。
そして、文禄2年(1593)頃から、「如水軒圓清」(じょすいけん えんせい)の号を名乗るようになりました。
「水の如く」とは、あるいはこうした自然体の生き方を志向する心境を示していたのかも知れません。


しかし、官兵衛が福岡城で過ごした年月は、そう長くはありませんでした。

慶長9年(1604)、京に上っていた官兵衛は、体調を崩して床に伏せます。
そして3月20日、伏見屋敷において58歳でその生涯を閉じたのでした。





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