信長は、なぜ本能寺を宿所としていたのか?

2014-07-20 23:10:58 | うんちく・小ネタ
NHK大河ドラマ 「軍師官兵衛」、物語はついに本能寺の変を迎えました。

本能寺の変は、歴史上最も有名な事件のひとつですが、同時に最大級の謎のベールに包まれた事件でもあります。
そもそも、明智光秀はなぜ信長を討ったのか・・・。

光秀は天下が欲しかったという「野望説」、
信長からの度重なる非道な仕打ちに堪忍袋の緒が切れたという「怨恨説」、
あるいは、信長の天下構想に危機感を持ったという「信長野望阻止説」・・・・・
諸説紛々で、まさに迷宮入りです。

ちなみに、NHK大河ドラマ 「軍師官兵衛」で描かれた光秀謀叛の動機は、「信長野望阻止説」でした。



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1.なぜか、信長は京都に屋敷が無かった!? 


ところで、本能寺の変をめぐる謎は、光秀謀反の動機だけではありません。

信長が本能寺を宿所にしていたことも、実は大きな謎をはらんでいるのです。
厳密に言うと、信長が泊まっていたのは、本能寺の敷地内に自分専用に建てた御殿でした。

私たちのイメージでは、信長ほどの実力者ならば、京都の好きな場所に、城なり屋敷なりを造れば良いように思います。
しかし、信長が頻繁に上洛を繰り返した14年間のうち、京都に自分の屋敷を持ったのは、わずか2年余りの短期間でした。
それ以外のほとんどは、市街地に隣接する大寺院を転々として宿所に利用していました。
そして、最後は本能寺の敷地を間借りするように建てた御殿に泊まっていて、そこを明智光秀に襲撃され落命しました。

独立した屋敷を持たず、お寺に宿を取る信長・・・。
これには、果たしてどのような理由があるのでしょうか?



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    <本能寺跡付近に建つ石碑>





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2.戦国時代の京都


信長について考える前に、まずは戦国時代の京都を見てみましょう。
次の写真は、現代の京都の航空写真に、戦国時代の町の様子を略記したものです。


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京都の市街地は、室町時代中期の 応仁の乱(応仁元年~文明9年/1467~1477)で一面の焼け野原となりました。
その後、「町衆」(まちしゅう)と呼ばれた都市民たちの手で復興が進められました。
その結果、戦国時代の京都は、市街地が上京(かみぎょう)と下京(しもぎょう)とに分離し、それぞれ「町衆」による自治が行われていました。
両市街地は、室町小路(むろまちこうじ)によって連結されていました。

上京は、おおまかに言うと、老舗の豪商が多い街です。
この地域は、天皇の住む内裏、室町幕府将軍の御所に隣接しています。
また、公家屋敷、幕府の役人や諸国の守護たちの屋敷なども集中していました。
市街地の東側には、足利義満が建立した相国寺の大規模な境内がありました。
まさに、政治の中心地のお膝元として発展した地域でした。

一方、下京は、中小規模の商工業者が多い街で、新興の気概にあふれ発展してゆきました。
こうした人々は法華宗を厚く信仰し、「町衆」としての結束を強めていました。
そのため、本能寺や妙覚寺(みょうかくじ)など、大規模な法華宗の寺院が市街地に隣接して建っているのが特長です。


 

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3.京屋敷を持たない信長。 それは、足利将軍との微妙な関係から始まった
    ≪永禄11年(1568)~天正元年(1573)≫




永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を奉じ、6万人と号する大軍を率いて上洛。
室町幕府を傀儡化していた三好氏の勢力を、わずかな日数のうちに駆逐しました。
信長の武力を背景に、足利義昭は朝廷から征夷大将軍に任命され、室町幕府15代将軍となりました。

永禄12年(1569)2月、信長は京都に将軍義昭の居城を築き始めます。
その場所は、上京と下京の中間地点で、両市街を結ぶ室町小路の上にまるで胡坐(あぐら)を
かくような立地です。
「京都の中心に将軍が君臨する」
という権力構造を、視覚的に誇示する狙いもあったのでしょう。



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この城は、「公方御構」(くぼう おかまえ)、あるいは「武家御城」(ぶけ おしろ)と呼ばれていたことが当時の史料から分かります。まさに将軍の城として認知されていました。
(なお、現在の歴史学上では、この城は 「旧二条城/きゅう にじょうじょう」という仮称で呼ばれています)




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城普請は、時に信長自らが陣頭指揮を執り、70日間ほどの突貫工事で完成し、義昭が入城しています。
将軍義昭の居城の周りには、義昭を支持する大名たちの屋敷が建ち並び、城の威容をさらに一段と高めていました。

こうして京都に平穏が訪れたかのように見えましたが、ここに小さな綻(ほころ)びが芽生えていました。
他でもない信長が、義昭がどんなに勧めても、頑なに辞退して義昭居城の周りに屋敷を建てようとしないのです。

この時の両者の思惑は、およそ次のように考えられます。
義昭・・・「信長の屋敷を我が居城の周辺に建てさせ、信長が将軍の家臣であると世間に示したい。」
信長・・・「義昭は、政治利用するために将軍の座に就けたまでのこと。臣下の礼など取るものか!」

つまり、大名は京都のどこに屋敷を建てるかで、その地位や立場を世間に、さらには日本中に表明することになってしまうのです。
信長は、なにも室町幕府の再興を望んでいるのではなく、将軍義昭を自分の権力拡大に利用したいだけでした。
いずれ義昭に利用価値がなくなれば、袂を分かつつもりでした。
それだけに、ここで足利将軍の家臣であると表明すれば、将来の活動上、大きな制約ともなり兼ねません。
信長は、自らの天下構造に向けて、超然として居たかったのでしょう。

そこで、信長が考えた方策は、寺院への宿泊でした。

この時代、大名が寺院を宿所に利用することは、ごく一般なことでした。
寺院の境内は十分な広さがあり、大勢のお供を収容することができます。
また、周囲の高い築地塀は、いざというとき防御壁ともなります。
さらに、格式の高い寺院になると、貴人を迎える客殿を備えており、体面を保つことができます。

何よりも、寺院はあくまでも宿所ですから、信長の置かれている地位や立場をぼやかすことが出来ます。
むしろ、軍事力を背景に過大に世間に印象付けることが可能になる。
これこそが信長のねらいだったのでしょう。

そんな思惑を秘めた信長が注目したのは、下京の市街地に隣接する妙覚寺と本能寺でした。
特に本能寺は、かつて比叡山延暦寺の兵力に焼き討ちされた教訓から、周囲に堀と土塁を廻らせ、城館のような構えをしていました。

元亀元年(1570)8月と9月、相次ぐ上洛の際に、信長は本能寺を宿所としています。
そして、同年12月に本能寺宛に発給した文書の中で、
「本能寺は信長の定宿であるから、他の者が寄宿してはならない。」
と指示しています。(/『本能寺文書』)

しかし、その後は本能寺よりも妙覚寺をよく利用するようになります。
やはり、上京と下京とを結ぶ室町小路に面した妙覚寺の方が、信長の京都での実力を誇示するのに好都合と考えたのでしょう。



天正元年(1573)に至って、 足利義昭と信長の関係は決裂。

同年7月、義昭は、宇治の槇島城に籠城して抗戦しましたが、ほどなく信長に降伏。
河内国の若江を経て、毛利氏を頼って備後国へ落ち延びて行きました。
ここに、室町幕府は滅亡しました。


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室町幕府の滅亡後、信長はすぐには京都に屋敷を建てず、やはり妙覚寺を上洛時の宿所に利用するスタイルを続けました。
しかし、翌・天正2年(1574)以降、新たな動きを見せます。



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3.信長、幻の京都築城計画 
    ≪天正2年(1574)~天正3年(1575)≫


天正2年(1574)になって、信長は京都に自分の城を築くことを計画します。
場所は、上京の市街地に接する相国寺です。
相国寺は、応仁の乱で全焼した後、復興が進められていましたが、天文20年(1551)に細川氏と三好氏の戦いで再び全焼しました。
その後、どこまで復興されていたか不明ですが、室町幕府の力がいよいよ弱まっていた時代なので、広大な境内の多くは空き地のままだったのではないでしょうか。
信長は、この広大な境内を城に改造しようと考えたようです。

しかし、この築城計画は、何故か立ち消えになりました。
武田勝頼の侵攻(翌・天正3年、長篠合戦にて撃破)をはじめ、なお多くの敵と交戦中だったこと。
また、上京という土地柄が、とかく信長に反抗的だったことなども理由に考えられます。


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 4・妙覚寺の隣に、初めての京屋敷を建設
    ≪天正4年(1576)~天正7年(1579)≫
  

天正4年(1576)5月、信長は妙覚寺の東側(室町小路を挟んだ向かい側)にあった公家・二条晴良の屋敷地を譲り受けました。そして、自分の屋敷の普請を開始します。

なぜ、この時期になって、ようやく京屋敷を建てたのか、よく分かりません。
前年に信長が、従三位権大納言兼右近衛大将に叙任されたことが関連しているのかも知れません。
また、同じく前年に信長は、長男の信忠に織田家の家督を譲っています。
妙覚寺の宿所も信忠に譲って、別に隠居所を構える意図もあったのかも知れません。

信長が初めて建てたこの京屋敷は、「二条御新造」(にじょうごしんぞう)の名で史料に登場します。
翌・天正5年の夏には完成したようで、その後は上洛時には常に「二条御新造」に泊まっています。

ところが、天正7年(1579)11月、信長は「二条御新造」を誠仁親王(さねひとしんのう/正親町天皇の第一皇子)に献上しました。
これは、前年に、信長が右大臣と右近衛大将の官を辞した(正二位の位階は変わらず)ことも関係しているのでしょうか?
また、信長は建設当初から、この屋敷はいずれ誠仁親王に献上するという意志を持っていたとする史料もありますが、完成して2年余りも自分の屋敷として使ってから献上するというのもこれまた謎です。


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 5・そして、再び本能寺へ
    ≪天正8年(1580)~天正10年(1582)≫


そして、翌・天正8年2月より、新たな上洛時の宿所として、本能寺の敷地内に自分の御殿の建設を始めました。
転々と宿所を変え、再び戻ってきた本能寺。
それから1年4ヶ月の後、皮肉にも、ここが信長の終焉の地となったのでした。




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