皆さんこんにちは!
こちら岩手県一ノ関市の京呉服すがわらでございます。
東北にある小さな呉服屋ですが、店内の工房らくぜんで
きもの屋がきものを作っているんですよー
この間地元のお寺の晋山式をお手伝いさせて頂いた事でまた久々に地元の歴史について考えてみたくなりました。
呉服屋のおっさんの戯言ですけど、よろしかったらお付き合いください。
以前このブログで
私の地元のお殿様が実は坂上田村麻呂の子孫であった!
という事を知ったのを切っ掛けに
大武丸とか色々と古代の痕跡に思いを馳せた事があったんですけど、
それ以来興味を持ち始めると色々と気になるもので
本とか、テレビのニュースなんかでも自然とそういう記事に目がいきます。
つい先日、沖縄で世界最古の釣り針が見つかりましたが、
これが何と2万3千年前のものです!
年代的に旧石器時代という事になりますよね、それにしてもこのクオリティーですよ!
かなりの加工技術です。ちょっと旧石器人の方々を誤解してました。
何より二万年前から釣り針の形状は特別進化していないという事ですよ魚信さん!
「フフフ…そうなのかかい?三平君」 カポン カポン
・・・
まあ、そんなこんなで
そもそも蝦夷とはどんな人達だったのか
それにはまず縄文時代から話さなければなりません。
そこに住んでいたのは日本列島の原住民族です。
言うなれば縄文人ですよね
最近の研究では縄文時代は氷河期が終わって早々に始まっていたらしく
紀元前1万5千年前から紀元前950年前くらいまで続いたとされています、すごく古くて長い!です。
まず長いという事は文化的に非常に安定していたという事ですし、
しかもけっこう高度な文化水準だった様で、世界最古級の煮炊きの痕跡も縄文土器にあったりして
最近では縄文文明などと論ずる向きもあるくらいです。
まず特筆すべきはそんなに長い間にこれといった戦乱が無かったらしい事です。
遺跡や遺骨に処刑、戦傷痕が見られない事等からもそう言われていますが、
(戦傷遺体が出るのは弥生になってから)
それというのもどうやら予想以上に日本列島の植生が、食糧事情が豊かだったらしい事です。
当時の世界周辺を見ても例外的に豊かな土地だったようで、魚がものすごく取れ、貝類も多く
獣も植物も非常に豊富、その上、栗をベースとする定着農業を行っていたようです。
農業と採取の混合形態ですね、これは現代人と同じです。
江戸時代の人骨ほうが、縄文時代の人骨よりも歯のエナメル質が減っていた!なんて報告もあるくらいで、
これはつまり 奪い合う必要が無かったんですね、
それぞれの集落で自給出来ていて、交易も行っています。
こんなに豊かで平和な日本列島ですが弱点もあって、それが自然災害です。
例えば台風、水害、地震、津波、火山の噴火等.etc、これがあまりにも多い。
そしてこれこそが恐らく日本人の精神的DNA 協調、協働の基盤になったと考えられます。
「助け合い」の価値が非常に大きいんですね、生存の基盤なんです。
何故なら主たる生存の脅威は奪いに来る人(兵士)ではなく、自然災害だからです。
そんな訳で現在でも日本列島は「天災のデパート」等と揶揄されるほど災害と隣り合わせですが
当時は現在よりも噴火の頻度も高く、中でも大噴火として地層に刻まれるのが
7300年前に起きた喜界カルデラの超巨大噴火です。
これによって当時の九州周辺地域は壊滅状態に、
中国四国地方一帯から東海地方辺りまでが以後数百年間人の住めない不毛の大地になったらしいです。
この噴火により以降九州地方の縄文土器の痕跡は絶えます。
ここで思い出すのが
柳田 國男 (著) 「海上の道」です。
文化人類学の観点から日本人のルーツを探る本ですが、
日本人はどちらかと言えば海洋民族で、ルーツは大陸よりもむしろ南西諸島に、沖縄(琉球)にあるのじゃなかろうかというものです。
そういえば確かに琉球の宮廷料理と茶道の懐石料理なんかそっくりなんですよ!
当時なるほどな~と興味深く読んだものでした。
ところが最近この喜界カルデラ噴火が明らかになって状況が少し変わってきまして
どうやらこの噴火の時、一部避難脱出に成功した縄文人達は
偏西風に逆らって島伝いに南に逃げたんだろうと予想される訳です。
そして土地の回復と共に少しずつ戻ったんだろうな、と。
また同時に大陸からも順次渡来してきた集団も居たらしい事。
西日本で突如始まった弥生時代の説明もこれでつくわけですよ!
この時点で蝦夷はまだ(概念的に)存在していません。
このまま弥生から古墳時代へと続けたいところですが
長くなってしまったので今回はここまで。
たまにはきもの以外の話もしてみたい
秋の夜長の酒のあてです。
続きもちゃんと書きたいと思います。
お楽しみに~
★蝦夷再考その2 縄文から弥生へ~
こちら岩手県一ノ関市の京呉服すがわらでございます。
東北にある小さな呉服屋ですが、店内の工房らくぜんで
きもの屋がきものを作っているんですよー
この間地元のお寺の晋山式をお手伝いさせて頂いた事でまた久々に地元の歴史について考えてみたくなりました。
呉服屋のおっさんの戯言ですけど、よろしかったらお付き合いください。
以前このブログで
私の地元のお殿様が実は坂上田村麻呂の子孫であった!
という事を知ったのを切っ掛けに
大武丸とか色々と古代の痕跡に思いを馳せた事があったんですけど、
それ以来興味を持ち始めると色々と気になるもので
本とか、テレビのニュースなんかでも自然とそういう記事に目がいきます。
つい先日、沖縄で世界最古の釣り針が見つかりましたが、
これが何と2万3千年前のものです!
年代的に旧石器時代という事になりますよね、それにしてもこのクオリティーですよ!
かなりの加工技術です。ちょっと旧石器人の方々を誤解してました。
何より二万年前から釣り針の形状は特別進化していないという事ですよ魚信さん!
「フフフ…そうなのかかい?三平君」 カポン カポン
・・・
まあ、そんなこんなで
そもそも蝦夷とはどんな人達だったのか
それにはまず縄文時代から話さなければなりません。
そこに住んでいたのは日本列島の原住民族です。
言うなれば縄文人ですよね
最近の研究では縄文時代は氷河期が終わって早々に始まっていたらしく
紀元前1万5千年前から紀元前950年前くらいまで続いたとされています、すごく古くて長い!です。
まず長いという事は文化的に非常に安定していたという事ですし、
しかもけっこう高度な文化水準だった様で、世界最古級の煮炊きの痕跡も縄文土器にあったりして
最近では縄文文明などと論ずる向きもあるくらいです。
まず特筆すべきはそんなに長い間にこれといった戦乱が無かったらしい事です。
遺跡や遺骨に処刑、戦傷痕が見られない事等からもそう言われていますが、
(戦傷遺体が出るのは弥生になってから)
それというのもどうやら予想以上に日本列島の植生が、食糧事情が豊かだったらしい事です。
当時の世界周辺を見ても例外的に豊かな土地だったようで、魚がものすごく取れ、貝類も多く
獣も植物も非常に豊富、その上、栗をベースとする定着農業を行っていたようです。
農業と採取の混合形態ですね、これは現代人と同じです。
江戸時代の人骨ほうが、縄文時代の人骨よりも歯のエナメル質が減っていた!なんて報告もあるくらいで、
これはつまり 奪い合う必要が無かったんですね、
それぞれの集落で自給出来ていて、交易も行っています。
こんなに豊かで平和な日本列島ですが弱点もあって、それが自然災害です。
例えば台風、水害、地震、津波、火山の噴火等.etc、これがあまりにも多い。
そしてこれこそが恐らく日本人の精神的DNA 協調、協働の基盤になったと考えられます。
「助け合い」の価値が非常に大きいんですね、生存の基盤なんです。
何故なら主たる生存の脅威は奪いに来る人(兵士)ではなく、自然災害だからです。
そんな訳で現在でも日本列島は「天災のデパート」等と揶揄されるほど災害と隣り合わせですが
当時は現在よりも噴火の頻度も高く、中でも大噴火として地層に刻まれるのが
7300年前に起きた喜界カルデラの超巨大噴火です。
これによって当時の九州周辺地域は壊滅状態に、
中国四国地方一帯から東海地方辺りまでが以後数百年間人の住めない不毛の大地になったらしいです。
この噴火により以降九州地方の縄文土器の痕跡は絶えます。
ここで思い出すのが
柳田 國男 (著) 「海上の道」です。
文化人類学の観点から日本人のルーツを探る本ですが、
日本人はどちらかと言えば海洋民族で、ルーツは大陸よりもむしろ南西諸島に、沖縄(琉球)にあるのじゃなかろうかというものです。
そういえば確かに琉球の宮廷料理と茶道の懐石料理なんかそっくりなんですよ!
当時なるほどな~と興味深く読んだものでした。
ところが最近この喜界カルデラ噴火が明らかになって状況が少し変わってきまして
どうやらこの噴火の時、一部避難脱出に成功した縄文人達は
偏西風に逆らって島伝いに南に逃げたんだろうと予想される訳です。
そして土地の回復と共に少しずつ戻ったんだろうな、と。
また同時に大陸からも順次渡来してきた集団も居たらしい事。
西日本で突如始まった弥生時代の説明もこれでつくわけですよ!
この時点で蝦夷はまだ(概念的に)存在していません。
このまま弥生から古墳時代へと続けたいところですが
長くなってしまったので今回はここまで。
たまにはきもの以外の話もしてみたい
秋の夜長の酒のあてです。
続きもちゃんと書きたいと思います。
お楽しみに~
★蝦夷再考その2 縄文から弥生へ~