THINKING LIVE シンキングライブ

シンキングライブは経済情報サイト
矢野雅雄が運営しています。

24965、トルコP、エルドアン、イスラム士官校エリート卒業者、トルコの今後

2013年06月13日 08時10分04秒 | thinklive

*トルコの政局がどう動くか、メディアが声を大にする世俗主義がホンヤク語で、ボクの、記憶の、トルコ近代の、ケマルパシャ?初代Pのイメージと違う、市民社会とボクは解釈している、

*13/5中旬以降、70~80億$の短期マネーが流出、11/イスタンブールで弁護士50人が拘束される、12/弁護士3000人がデモ!

*戦後の2度の、軍事独裁政権と、どう、エルドアンPが関わっているのかが、注目であるが、まだ出てこない、

*1、イスラムは王政支配と2、英欧米指導のデモクライスラム、3、宗教者指導のイスラム、4、部族イスラムの4極に限局されつつある、と、ボクは思うが、トルコの立場は、2,3の複合体?3へゆくとは思えない?そうなれば、近代の一時的崩壊だ、ありえない!

1954年、イスタンブルのベヨール区カスムパシャ(Kasımpaşa)に生まれる。
1973年イマームハティップ高校(イマーム養成学校)卒業後、マルマラ大学経済商業学部入学。在学中、国民救済党(MSP:Milli Selamet Partisi)にて政治活動を開始した。

*イマーム(امام‎ imām)は、アラビア語で「指導者」、「模範となるべきもの」を意味する、イスラム教の「指導者」。スンナ派は、イスラム教徒の大小の宗教共同体を指導する統率者。シーア派においては宗教共同体にとって特別な存在である「最高指導者」をイマームと呼ぶ(後述)。*先進諸国の、仕官学校?名門校、

*トルコ革命ーイスラムからの離脱、市民社会の成立

トルコ革命は、トルコにおいて、第一次世界大戦後のオスマン帝国解体の危機において、アンカラに樹立された大国民議会政府が祖国解放戦争に勝利、オスマン帝国を打倒して、新たにトルコ共和国を樹立する過程。ムスタファ・ケマル・アタテュルクがその指導者、トルコ共和国の初代大統領。
この革命により、トルコは中東諸国において支配的なイスラム教による政治体制から離脱、自国民による自立的な国民経済の創出へ歩み始める、それでも、イスラム体制は民族的基礎宗教として社会を構成しているから、政治の世俗主義との間で絶え間なく揺れ動く、

第二次世界大戦、米英欧側に組みし、参戦

 1944年5月、ドイツとその同盟国向けのクロム鉱の輸出を停止したのを皮切りに、8月にはドイツとの国交断絶、翌1月には日本とも国交を絶った。正式な参戦は、1945年2月。

 連合国側での参戦が高く評価されたトルコは、終戦間際に国際連合の一員になり、1951年には 北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。この過程で、ソ連との仲が決定的に悪化したため、トルコはアメリカとのコミットを深め、そして日本や西ドイツと同様に、冷戦の西側最前線として位置づけられることになった。
 

80/9/12、軍によるクーデター、

参謀総長のケナン・エヴレンら軍首脳が、1970年代末の政治混乱の終息を標榜して敢行した。軍部は、全土に戒厳令を発令し、国家安全保障評議会を設立して国政を掌握した。憲法の停止、議会の解散、全政党の解党等の超法規的措置が取られ、治安維持を目的として約65万人が身柄を拘束された。軍事政権は、1982年に新憲法を制定し、クーデターの3年後の1983年に民政移管がされた。
1923年の共和制発足以降、軍が直接行動により文民政府を転覆させたのは、1960年に民主党政権を崩壊させた軍事クーデター以来2度目であり、クーデター後に制定された1982年憲法は、部分的な改訂を経て現在も有効である。

エルドアンは、1983年9月12日クーデターからの民政移管後、福祉党(RP:Refah Partisi)に入党、政治活動を再開する。

1994年3月27日にイスタンブル市長に当選。イスタンブル市長として活動中の1997年に政治集会でイスラーム教を賛美する詩を朗読したことがイスラーム原理主義を煽動したとして告発され1999年3月26日、国家治安法廷(現在は廃止)により、刑法第312条2項(国民間の宗教およびレイシズムを扇動)の罪により4年半の実刑判決。憲法第76条により被選挙権を剥奪される。服役開始。1999年9月4日釈放。

*服役期間は、僅か、5ケ月余、
2001年6月22日美徳党(FP:Fazilet Partisi)解党。その後2001年8月14日に結成した公正発展党(AKP:Adalet ve Kalıkma Partisi)において、被選挙権剥奪のまま党首に就任。2003年12月27日、トルコ大国民議会により憲法第76条が改正され(2003年12月13日憲法改正案をトルコ大国民議会が可決するが、2003年12月19日にセゼル大統領は改正案を差し戻し。2003年12月27日トルコ大国民会議が再可決、2003年12月31日セゼル大統領が国民投票に付託せずに承認。法的な改正日付は2003年12月27日)、被選挙権を回復。
2003年3月9日にスィイルト県の補欠選挙で当選。それにともない、公正発展党副党首で首相のアブドゥラー・ギュルから首相職を譲り受け、2003年3月16日首相に就任(ギュルは外相として内閣に残った)。経済の好調を背景に高い支持率を得て、2007年の総選挙にも勝利して2期目に入った。
一方で姦通罪の復活法案(のち廃案)、大学など公の場での女性のスカーフ着用(トルコではイスラーム主義の表明とみなされる)を認める法案を提出するなど、イスラーム回帰を思わせる行動もあり、都市部の知識階級やリベラル派、軍部などの世俗主義者には、エルドアンに対する根強い反感がある。2007年の大統領選挙の際はエルドアン自身が出馬を希望したが、世俗主義者の猛烈な反発に遭い大都市での反エルドアンデモが頻発したため出馬を取りやめ、代わって擁立されたギュル外相・前首相が紆余曲折の末に大統領に選出された。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿