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12357、プーチンの人格、キャリアはスパイ領域の極限、世界レベルのマニアお宅、

2011年12月13日 03時57分38秒 | thinklive

 

生粋のKGB、権力志向とシステム構築のパッション?

やがてプーチンは映画や小説からスパイに憧れを抱き、ソ連国家保安委員会(KGB)への就職を考えるようになる。14才の9年生(日本でいう中学3年生)の時に彼はKGB支部を訪問し、応対した職員にどうすればKGBに就職できるのか質問した。職員は少年の質問にきわめて真率に対応し、KGBは自ら志願してきた者を絶対に採用しないため、今後は自分からKGBにコンタクトしてはならないこと、大学の専攻は法学部が有利であること、言動や思想的な問題点があってはならないこと、スポーツの実績は対象者の選考で有利に働くことなどの現実的な助言を与えた。プーチン少年は以後そのアドバイスを忠実に守り、柔道に打ち込み、レニングラード大学では法学部を選択し、在学中も自分からはKGBに接触しなかった。そして大学4年生のときにKGBからのリクルートを受け、プーチンは1975年に同大学を卒業後、KGBへ就職する[11][12]。KGB職員であるためにはソビエト連邦共産党への入党が条件だったため、プーチンは共産党員になっている[13]

KGBでは、最初にレニングラード支部事務局、その後訓練を経て対諜報活動局に配属される[14]。それからさらなる研修を受けた後、第1総局(対外諜報部)レニングラード支部に勤務する[15]。そして外国で諜報活動を行うためにKGB赤旗大学で学び、1985年東ドイツドレスデンへと派遣される。東ドイツには1990年まで滞在し、政治関係の情報を集める諜報活動に従事したとプーチン自身は語っている[16]。しかし東西ドイツ統一によりレニングラードに戻り、母校のレニングラード大学に学長補佐官として勤務することになった。このころに、大学生の頃に教わっていたアナトリー・サプチャークと懇意になる。

1990年、プーチンはKGBに辞表を提出し[17]、レニングラード市ソビエト議長だったサプチャークの国際関係担当顧問となった。1991年6月にサプチャークがレニングラード(同年11月にサンクトペテルブルクに名称を変更)市長に当選すると、対外関係委員会議長に就任する。その後、1992年にサプチャークによりサンクトペテルブルク市副市長、1994年3月にサンクトペテルブルク市第一副市長に任命された。サンクトペテルブルク市の職員としてプーチンは外国企業誘致を行い外国からの投資の促進に努めた。またサプチャークの下で陰の実力者として活躍したため、「灰色の枢機卿」と呼ばれた

1996年にサプチャークがサンクトペテルブルク市長選挙でウラジーミル・ヤコブレフに敗れて退陣すると、プーチンはそれに伴い第一副市長を辞職する。その後、ロシア大統領府総務局長のパーヴェル・ボロジンによる抜擢で、ロシア大統領府総務局次長としてモスクワに異動した。プーチンはこの職に就任して法務とロシアの保有する海外資産の管理を担当した。1997年3月にはロシア大統領府副長官兼監督総局長に就任した。

1997年6月、プーチンはサンクトペテルブルク国立鉱山大学に「市場経済移行期における地域資源の戦略的計画」という論文を提出し、経済科学準博士の学位を得る。この論文の内容は、「豊富な資源を国家管理下におき、ロシアの内外政策に利用する」というものだった(この論文に関しては、2007年アメリカの学者が盗作説を主張するも、その後立ち消えとなる)。

 


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