彦四郎の中国生活

中国滞在記

明智城址と明智荘―明智光秀出生から明智城落城までの約30年間余りを過ごした地とされる最有力地

2020-10-06 21:26:07 | 滞在記

 大河ドラマ「麒麟がくる」で注目されて、明智光秀出生の地の最有力候補とされる岐阜県可児市の明智城跡に10月3日(土)に行ってきた。明智光秀の出自は謎が多く、出生地もはっきりしない。ただ、江戸時代はじめに編纂された『美濃国諸旧記』には「明智城といふは、土岐美濃守光衡より五代の嫡流、土岐民部大輔拠頼清の二男、土岐明智次郎長山下野守頼兼、康永元壬午年三月、始めてこれを開築し、居城として在住し、子孫代々、光秀迄是に住せり。」と記されてはいる。

 問題はこの『美濃国諸旧記』の「明智城」がどこにあったのかということだ。岐阜県恵那市明智町の「明知城」(智ではなく知と書く)と岐阜県可児市の「明智(長山)城」があり、それぞれの自治体では「我が町の城跡こそは」とPRに余念がない。「明知城」にも「明智(長山)城」にも、近くには「光秀誕生の際の産湯の井戸」跡なるものもある。また、「明知城」の近くには光秀の母・お牧の方(この名前も史実上は明らかではない)の小さな墓(1740年頃につくられたらしい)がある。10年ほど前に恵那市にある日本三大山城の一つ岩村城を訪れた際に、近くの明智町の明知城も行ってみた。規模的には恵那市の明智(長山)城と同じくらいのものかと思う。

 「麒麟がくる」の時代考証をつとめる歴史学者の小和田哲男氏(静岡大学名誉教授)は、恵那市の明知城は遠山明智氏の本拠地であり、土岐氏の流れをくむとされる光秀との直接のつながりがないことから、可児市の方の明智城や明智荘が光秀生誕の地であり、約30年余りを過ごした場所だと有力視している。大河ドラマ「麒麟がくる」も基本的にこの明智城説(線)に沿って展開されている。

 10月1日~8日までの約1週間は、中国では国慶節(建国記念日)の大型連休となった。閩江大学ではこの間の1日~4日までは大学の授業が休講となったので、10月3日に福井県の実家への帰省途中に、京都から愛知県、岐阜県を経由して郡上八幡町近くの油坂峠から越前大野を通り、実家のある南越前町に行くルートを巡った。この日の目的地のまずは可児市の明智城跡。

 午前8時前に京都の自宅を車で出て、京滋バイパス高速⇨名神高速⇨東名高速⇨中央高速⇨東海環状高速と途中休憩を何度かしながらも、ひたすら高速道路を走り続け、午後1時頃に恵那市の明智城近くに到着した。

 明智城近くの路上に駐車し城址に向かった。800mほど歩くと城址の大手口に着いた。地元の中学生たちが植えたと書かれた明智家の家紋の桔梗(ききょう)が大手道に咲いていた。

 大手道の入り口付近には「明智城址」や「明智荘」の説明が書かれていた。また、城跡巡りのイラスト地図のパンフレットなどが置かれていた。城址の説明看板には、「1342年に明智頼兼により築城されて以来、214年間、ここに土岐明智一族の山城が構えられていた。1556年に当時の美濃国の支配者斎藤道三とその子・義龍の争いが起こり、義龍軍に攻められて落城。光秀は城から脱出し落ち延びた。」と書かれている。

 大手口から大手道を登って行くと大手門(冠木門)が見えてきた。この冠木(かぶらき)門は、「麒麟がくる」関連の雑誌などによく掲載されている場所だ。石畳の道(桔梗坂と名付けられている)を登り続ける。道の左右に一の曲輪(一の丸)と二の曲輪の切岸(敵が侵入しにくいように削られた斜面)。二の曲輪(二の丸)に着く。 

 二の曲輪に「七人塚」があった。弘治2年(1556年)、「長良川の戦い」があった。この戦いは、斎藤道三とその息子・義龍との戦いだ。2万という圧倒的な義龍軍に対し2千という寡兵の道三軍。道三は敗死。道三に与した光秀や叔父の明智光安(当時の明智城城主で光秀の父の弟。光秀の後見人。)ら380人あまりが「長良川の敗戦後」、この城に籠るが、押し寄せた3千余りの義龍軍に城は落城した。

 『明智軍記』には奮戦の様子が記されている。

 「元来、宗宿入道は、一万貫の地を所有しける者也ければ、城中に篭る所の兵、僅かに三百八十余騎、義を金石に守りける。鋭卒為りい雖も、度々の合戦に残り少なに討たれしかば、宗宿(※明智光安)、いよいよ武に勇め共、堪ふべき様無くして、同九月二十六日、申の刻計、舎弟・次右衛門光久(※光安の弟)と相伴に、艶やかに討ち死にして、名を後代にぞ残しける。」

 落城のとき、十兵衛光秀もまた城と運命をともにせんと決戦を試みるが、叔父の光安は十兵衛の鎧の袖を掴んで引き留めた。『明智軍記』には、「某は、亡君の恩の為めに相ひ果てるべし。御辺は、唯今、身を捨つるべき処に非ず。命を全ふして、名字を起こし給へ。それこそ先祖の孝行なれ。其の上、光秀は、当家的孫殊に妙絶勇才の仁にて、直人共覚へず候へば、某が息男・弥平次光春(光満)、甥の次郎光忠をも偏に頼み候也。如何様にも撫育して、家を起こされ候へ。」と記されている。この落城のシーンは「麒麟がくる」前半の名場面ともなった明智城の落城と越前に落ち延びる光秀たちの逃避行のシーンとなる。

 光安は甥の光秀と息子の秀満らを明智家再興のため落ち延びさせ、自刃して果てる。「七つ塚」はこのとき共に奮戦した七人の武将を供養するものらしい。石に囲まれた土の七つの塚(つか)が並んでいた。塚のそばには柿の木の実が色づき始めていた。光秀や妻・熙子、光満らはいくつもの峰や峠を越えて苦難の末に越前に落ち延びた。

◆『明智軍記』

 明智光秀の美濃脱出から山崎の合戦後、光秀が小栗栖の竹藪で殺害されるところまで書かれている。江戸時代中期の元禄年間の1688年~1702年頃に書かれたといわれる。作者不明。全10巻。光秀の死後100年ほど経った頃に書かれた。

 小和田哲男氏は「史実との誤謬も多く、歴史資料価値は低いが、現在私達が知り得ない何らかの情報をにぎっていた可能性は皆無とは言えず、同署によってしか知り得ない情報も少なくない」と語る。また、桐野作人氏は「この軍記書は、明智家中の末裔らしき事情通が編纂に関与している形跡がある」と語る。

 二の曲輪には馬防柵が巡らされていた。三の曲輪(本丸)に行くと、新しい明智光秀像が建てられてもいた。古くからの「明智城址」の石碑が。この明智(長山)城は、東西に延びた10余りの曲輪で構成されている城郭で、曲輪と曲輪は深い谷で遮られているところも多い。標高は175mだが、比高は50m~60mほどの、山というよりいくつかの台地上の丘と谷間を防衛のラインとして築かれた城郭だった。城郭の山麓にはかっての城館や武家屋敷などがあったとそれる。

 本丸曲輪の展望処からは明智荘が一望できる。「麒麟がくる」の第一回目に放映された「明智荘」のような光景が広がる。ここの地元の人らしい人から、「どこから来たのですか」と問いかけられ、しばらく話をした。「あそこに見える山が森蘭丸の一族の居城だった美濃金山城址があるとこなんです」と教えてくれた。本能寺の変で相対する光秀と信長を守る近臣の蘭丸だが、二人の居城(故郷)がかってこんなに近い場所にあったちいうことを初めて知った。森蘭丸は織田信長の近習。光秀の軍勢による本能寺の変にて弟の坊丸・力丸とともに亡くなる。享年18歳。

 本丸曲輪から谷間を下ったり登ったりして城道は台所曲輪、水の手曲輪、西大手曲輪、乾曲輪と続く。西大手曲輪に「六親眷属幽魂塔」という祠があった。六親眷属(ろくしんけんぞく)とは、一族や親戚すべてのことを指す言葉。この祠の下で1973年に地上5cmほど頭を出して埋もれていた石造物が発見された。この石は明智城将兵の供養のために埋められていた石物で、長く逆臣とされた光秀をはばかって、地中に埋められていたとされる。今は小さな祠に地元の人たちにより祀られていた。

 西端の乾曲輪を搦め手とした城郭から下山する。こちらの搦め手口の道は「十兵衛坂」と名付けられ、ここもきちんと遊歩道が整備されていた。地元の光秀愛、大河ドラマにかける思いが伝わってくる。明智城落城のとき、光秀たちはここから逃れたのかな、などと思いを巡らせながら下山する。

 明智城の麓にこの土岐明智一族の菩提寺とされる「天龍寺」があった。背後には明智城のある丘の森が見える。寺の門石碑には「明智光秀公縁寺 瀬田天龍寺」と書かれていた。本堂に行くと桔梗紋の幕が張られ、光秀の真新しい位牌や木像が置かれていた。この位牌の高さは6尺1寸3分(184cm)。これは、光秀の命日である6月13日にちなんだもものらしい。位牌には「長存寺殿明窓玄智禅定門」と戒名が書かれていた。毎年6月には「光秀供養祭」が行われるらしい。

 本堂に隣接した墓地に彼岸花が満開を迎えていた。「明智一族歴代之墓所」があった。

 明智城や天龍寺を巡って、時刻を見たら2時半頃になっていた。これから福井県の敦賀市に近い南越前町の実家に午後7時までに行かなければならない。4時間あまりで岐阜と福井の県境の油坂峠を越えて奥越地方の大野市を経由して行くこととなる。明智城の南東方向、隣接する土岐市に光秀の妻・熙子の実家とされる妻木氏の居城「妻木城」がある。妻木一族の多くはは本能寺の変後の明智家一族とともに滅び、その一族の墓は滋賀県大津市の西教寺にある。

 妻木城とともにまた、森蘭丸が生まれ育った美濃金山城などにも行きたかったが、今回は断念した。ちなみに、可児市には信長の母「土田(どた)御前」の銅像もある。ここが彼女の故郷だとされてもいるようだ。(※「可児市」は、「かじし」と読むと思っていたが、ここに来て初めて「かにし」と読むことを知った。)

◆明智光秀が生まれたと説のある地は6箇所ある。①可児市の明智城・明智荘が最も有力、次いで②恵那市明智町の明知城。その他に、③岐阜県瑞浪市(土岐氏発祥の地とされる)、④岐阜県山県市(光秀の母が祈ったとされる岩がある)、⑤岐阜県大垣市(この地にあった多羅城で生まれた)、⑥滋賀県多賀町(光秀の生家とされる十兵衛屋敷跡がある)など。いろいろ史実を見る限り、やはり①がその出生地で30年余りを過ごした地かと思われる。そして、光秀の母「お牧の方」(光秀の母の出自や名も分かってはいない)の出生地(実家)が遠山明智氏ゆかりの②明知城だったのかも知れない。おそらく政略結婚として遠山明智氏から土岐明智氏に嫁いできたのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


本能寺の寺の変の真相とは―歴史作家・桐野作人講演「岐阜と京都―本能寺の変をどうとらえるか」

2020-10-03 05:35:41 | 滞在記

 新型コロナウイルス感染拡大が日本においても深刻化してきた2月中旬以降、特に3月上旬以降は「不要不急の外出自粛」が社会的にも求められ始めることとなった。そのような状況があったので、私は2月中旬以降のほぼ5カ月間、車で近畿各地の明智光秀に関連した、人もほとんど訪れない山城(やまじろ)史跡や城跡、光秀関連の史跡、特に本能寺の変や山崎合戦(天王山の戦い)の史跡、光秀の死去に伴う史跡や墓地(首塚・胴塚など)を足しげく訪れた。

 「本能寺の変の真相とは」どのようなものだったのだろう。「光秀はなぜ信長を殺すというクーデターを挙行したのだろう」。日本の歴史上最大のミステリー事変だが、明智光秀その人のことも、現地に行くと見えてきたり、感じたりすることも多い。

 京都市の河原町御池に近い法華宗大本山「本能寺」で、9月12日(土)・13日(日)に「光秀と信長 天下布武の道」というイベントが開催された。主催は「岐阜県大河ドラマ"麒麟がくる"推進協議会」。明智光秀の生誕地・岐阜県が、京・本能寺に出陣!と銘打ったイベントだった。近くにある丸善書店や喫茶店に行きがてら、そのイベントの両日ともに本能寺に行った。

 本能寺では、「本能寺寺宝展―信長✖光秀」展が本能寺宝物館で4月25日~9月30日までの5カ月間開催されており、私は9月6日に見に行ってきた。

 9月12日(土)は、「岐阜城盛り上げ隊演舞」や「さくらゆきライブ」、「光秀✖信長」対決クイズが午前、午後にそれぞれ行われていた。

 境内には岐阜県内の明智光秀ゆかりの市のパネル展示や光秀関連グッズなどの商品が売られていた。

 岐阜県の可児市、土岐市、山形市、岐阜市、恵那市と明智光秀とのゆかり地の説明なども。明智鉄道は今年、電車の車体に「麒麟がくる」のラッピングをした車両も走らせているようだった。

 13日(日)は、「歌舞姫ライブ」や「明智光秀甲冑劇(京都・長岡京おもてなし武将隊つつじ)」の演目後、今回のイベントのメインである「光秀と信長―天下布武の道―岐阜と京都、本能寺の変をどうとらえるか」というテーマでの歴史作家・桐野作人氏の特別講演が午後12時30分より本能寺本堂内の会場で始まった。新型コロナ対策として50人限定の参加者事前予約となっていた。

 現在のここ本能寺は、1582年6月にあった「本能寺の変」の「本能寺」ではない。豊臣秀吉が政権をとって、京都の周りに御土居をつくったり聚楽第城をつくった時代に、新たに違う場所につくられたものだ。織田信長廟や本能寺の変で亡くなった信長の家臣たちの慰霊塔などもある。

 

 さて、桐野氏の講演は、「本能寺の変をどう考えるか」ということが話の中心テーマでもあった。桐野氏は2000年代の初頭に『真説 本能寺』という書籍を出版し、本能寺の変の真相に迫った作品を書いている。そして15年後の2019年秋には『明智光秀と斎藤利三―本能寺の変の鍵を握る二人の武将』を出版している。資料考証に基づいたなかなか優れた著作だ。—新史料から明らかにもなった、「本能寺の変」438年目の真実―。この著作は光秀の腹心の武将・斎藤利三の存在がこの本能寺の変に大きく関係していることを考察している。

 本能寺の変を明智光秀が決行するに至る要素や出来事はいくつもあり、その複合的な要素が重なりあって事ここに至る。そしてキーマンとなるのが斎藤利三と桐野氏は考察している。講演の内容は、この最新著作内容に一部沿ったものでもあった。

 明智光秀一族の末裔と称する明智憲三郎がここ数年さまざまな光秀関連書籍を書いている。それをもとにして藤堂裕氏がコミック本として『信長を殺した男―本能寺の変431年目の真実』(巻1~8巻まで現在発売されている)を書き、ベストセラーコミックともなっている。私も全巻買って読んでみたが、なかなか面白い。歴史作家の安部龍太郎氏なども近年、この本能寺の変と世界史「大航海時代」における関係で、スペインやポルトガル勢力との関係に注目した考察をおこなっている。

 本能寺の宝物館の展示のメインに、「伝光秀公御兜(一般社団法人明智継承会蔵)」が展示されていた。兜の左右に明智家の紋章である桔梗がおかれている兜だ。この兜は、私が一度は「欲しいなあ!買いたいなあ!」と強く思った兜だった。今から10年ほど前になるが、兵庫県丹波篠山市の八上城(丹波三城の一つ)の麓にある古物商の店に立ち寄った際、店主が店の奥から出してきて私に見せてくれたものだった。

 店主が「最近、八上城を調べに来た作家の安部龍太郎さんがここに立ち寄られまして、この兜を見てもらいました。彼もこれを見て、"いいですね、欲しいなあ"と言っていました」と話していたのを思い出す。その後、明智継承会が購入したのかと思われる。あの時、もし、私が買っていたらなあ、家宝になるのだがと思うが、明智継承会の所蔵となってよかったのかとは思う。