土左日記 原文
対比読下及び訳文付き(3)
十二日安女不良寸不武止幾己礼毛知可布禰乃遠久礼多利之奈良之徒与利武呂川幾奴
十二日あめふらすふむときこれもちかふねのをくれたりしならしつよりむろつにきぬ
十二日、雨降らず。文時、惟持が舟の遅れたりし、奈良志津より室津に来ぬ。
十三日乃安可川幾爾以左ゝ加爾安女布留之波之安利天也美奴
十三日のあかつきにいさゝかにあめふるしはしありてやみぬ
十三日の暁に、いささかに雨降る。しばしありて、止みぬ。
女己礼加礼由安美奈止世无止天安多利乃与呂之幾所爾於利天由久宇美遠見也礼者
女これかれゆあみなとせむとてあたりのよろしき所におりてゆくうみを見やれは
女これかれ、「沐浴などせむ」とて、あたりのよろしき所に下りて行く。海を見やれば、
久毛ゝ美奈浪止曽見由留安万毛加奈以川礼可宇美止ゝ比天之留部久
くもゝみな浪とそ見ゆるあまもかないつれかうみとゝひてしるへく
雲もみな浪とぞ見ゆる海人もがないづれか海と問ひて知るべく
止奈无宇多与女留左天止宇可安末利奈礼者月於毛之呂之
となむうたよめるさてとうかあまりなれは月おもしろし
となむ歌詠める。さて、十日あまりなれば、月おもしろし。
舟爾乃利者之女之日与利舟爾八久礼奈為己久与幾ゝ奴幾寸
舟にのりはしめし日より舟にはくれなゐこくよきゝぬきす
舟に乗り始めし日より、舟には紅濃く、よき衣着ず。
曽礼者宇美乃神爾越知天止以比天奈爾乃安之加計爾己止川个天保也乃川万乃以寸之
それはうみの神にをちてといひてなにのあしかけにことつけてほやのつまのいすし
それは「海の神に怖ぢて」と云ひて、何の葦蔭にことつけて、老海鼠の交の貽貝鮨
数之安者比遠曽心爾毛安良奴者幾爾安个天見世个留
すしあはひをそ心にもあらぬはきにあけて見せける
鮨鮑をぞ、心にもあらぬ脛に上げて見せける。
十四日安可川幾与利安女布礼者於奈之所爾止万礼利布奈幾美世知見寸左宇之毛乃奈个礼者
十四日あかつきよりあめふれはおなし所にとまれりふなきみせち見すさうしものなけれは
十四日、暁より雨降れば、同じ所に泊れり。舟君、節見す。精進物なければ、
武万時与利乃知爾加知止利幾乃不徒利多利之堂比爾世爾奈个礼八与禰遠止利加个天
むま時よりのちにかちとりきのふつりたりしたひにせになけれはよねをとりかけて
午時より後に舵取、昨日釣りたりし鯛に、銭なければ、米を取り掛けて、
於知良礼奴加ゝ留己止奈本安利奴加知止利又多比毛天幾多利与禰左計奈止久累
おちられぬかゝることなほありぬかちとり又たひもてきたりよねさけなとくる
落ちられぬ。かゝること、なほありぬ。舵取、又鯛持て来たり。米酒など、来る。
加知止利気之幾安之可良寸
かちとり気しきあしからす
舵取、気色悪しからず。
十五日遣不安徒幾加由爾須久知於之久奈本日乃安之个礼者為左累本止爾曽
十五日けふあつきかゆにすくちおしくなほ日のあしけれはゐさるほとにそ
十五日、今日、小豆粥煮ず。口惜しく、なほ日の悪しければ、ゐざるほどにぞ、
个不者川可安万利部奴留以多川良爾日遠不礼者人ゝ海遠奈可女川ゝ曽安留
けふはつかあまりへぬるいたつらに日をふれは人ゝ海をなかめつゝそある
今日二十日あまり経ぬる。いたづらに日を経れば、人々海を眺めつゝぞある。
女乃和良波乃以部留
めのわらはのいへる
女の童の云へる。
堂天者太川為礼者又為留不久風止奈美止者思不止知爾也安留良无
たてはたつゐれは又ゐるふく風となみとは思ふとちにやあるらむ
立てば立つゐれば又ゐる吹く風と浪とは思ふどちにやあるらむ
以不可比奈幾毛乃ゝ以部留爾者爾徒可者之
いふかひなきものゝいへるにはにつかはし
云ふ甲斐なき者の云へるには、似つかはし。
十六日風奈美也万禰者奈本於奈之所爾安利止万礼利
十六日風なみやまねはなほおなし所にありとまれり
十六日、風浪止まねば、なほ同じ所にあり泊れり。
多ゝ宇美爾浪奈久之天以徒之可美左幾止以不止己呂和多良无止乃美奈无於毛婦
たゝうみに浪なくしていつしかみさきといふところわたらむとのみなむおもふ
ただ、「海に浪なくして、いつしか御崎といふ所、渡らむ」とのみなむ思ふ。
風奈美止爾ゝ也武部久毛安良寸安留人乃己乃浪多川遠見天与女留宇多
風なみとにゝやむへくもあらすある人のこの浪たつを見てよめるうた
風浪、とにに止むべくもあらず、ある人の、この浪立つを見て詠める歌、
霜多爾毛遠可奴方曽止以不奈礼止奈美乃奈可爾者由幾曽不利个留
霜たにもをかぬ方そといふなれとなみのなかにはゆきそふりける
霜だにも置かぬ方ぞといふなれど浪の中には雪ぞ降りける
佐天舟爾能利之日与利个不万天爾者川可安万利以川可爾奈利爾个利
さて舟にのりし日よりけふまてにはつかあまりいつかになりにけり
さて、舟に乗りし日より今日までに、二十日余り五日になりにけり。
十七日久毛礼留久毛奈久天安可川幾徒久与以止毛於毛之呂个礼者舟遠以多之天己幾由久
十七日くもれるくもなくてあかつきつくよいともおもしろけれは舟をいたしてこきゆく
十七日、曇れる雲なくて、暁月夜、いともおもしろければ、舟を出だして漕ぎ行く。
己乃安比多爾久毛乃宇部毛宇美乃曽己毛於奈之己止久爾奈无安利个留
このあひたにくものうへもうみのそこもおなしことくになむありける
この間に、雲の上も海の底も、同じごとくになむありける。
武部毛武可之乃乎止己者
むへもむかしのをとこは
むべも昔の男は、
佐於者宇加部奈美乃宇部乃月遠布禰者遠曽不宇美乃宇知乃曽良遠
さおはうかへなみのうへの月をふねはをそふうみのうちのそらを
「棹は浮かべ浪の上の月を舟はおそふ海の中の空を」
止者以日个武幾ゝ左礼爾幾个留也又安留人乃与女留宇多
とはいひけむきゝされにきける也又ある人のよめるうた
とは云ひけむ。聞き戯れに聞けるなり。又、ある人の詠める歌、
美那曽己乃月乃宇部与利己久舟乃左於爾左者留者加川良奈留良之
みなそこの月のうへよりこく舟のさおにさはるはかつらなるらし
水底の月の上より漕ぐ舟の棹に障るは桂なるらし
己礼遠幾ゝ天安留人乃又与女留
これをきゝてある人の又よめる
これを聞きて、ある人のまた詠める。
加計見礼者浪乃曽己奈留比左可多乃曽良己幾和多留和礼曽和日之幾
かけ見れは浪のそこなるひさかたのそらこきわたるわれそわひしき
影見れば浪の底なる久方の空漕ぎ渡る我ぞわびしき
加久以不安比多爾夜也宇也久安个留安比多爾由久爾加知止利良
かくいふあひたに夜やうやくあけるあひたにゆくにかちとりら
かく云ふ間に、夜やうやく明ける間に行くに、舵取ら、
久呂幾久毛爾者可爾以天幾奴風布幾奴部之美布禰可部之天武
くろきくもにはかにいてきぬ風ふきぬへしみふねかへしてむ
「黒き雲にはかに出で来ぬ。風吹きぬべし。御舟返してむ」
止以比天舟加部留己乃安比多雨布利奴以止和比之
といひて舟かへるこのあひた雨ふりぬいとわひし
と云ひて、舟返る。この間、雨降りぬ。いとわびし。
十八日奈本於奈之所爾安利宇美安良个礼者舟以多左寸
十八日なほおなし所にありうみあらけれは舟いたさす
十八日、なほ同じ所にあり。海荒ければ、舟ださず。
己乃止万利止本久美礼止毛知可久美礼止毛以止於毛之呂之
このとまりとほくみれともちかくみれともいとおもしろし
この泊、遠く見れども、近く見れども、いとおもしろし。
加ゝ礼止毛久留之个礼者奈爾己止毛於毛保衣須乎止己止知者心也利爾也安良无
かゝれともくるしけれはなにこともおもほえすをとことちは心やりにやあらむ
かかれども苦しければ、何事も思ほえず。男どちは心やりにやあらむ、
加良宇多奈止以布部之舟毛以多左天以多川良奈礼者安留人乃与女留
からうたなといふへし舟もいたさていたつらなれはある人のよめる
漢詩などいふべし、舟も出ださでいたづらなれば、ある人の詠める、
伊曽不利乃与寸留以曽爾八年月遠以川止毛和可奴由幾乃美曽不留
いそふりのよするいそには年月をいつともわかぬゆきのみそふる
磯ふりの寄する磯には年月をいつともわかぬ雪のみぞ降る
己乃宇多者川禰爾世奴人乃己止也又人乃与女留
このうたはつねにせぬ人のこと也又人のよめる
この歌は常にせぬ人のことなり。又、人の詠める、
風爾与留浪乃以曽爾者宇久比寸毛春毛衣之良奴花乃美曽佐久
風による浪のいそにはうくひすも春もえしらぬ花のみそさく
風に寄る浪の磯には鴬も春もえ知らぬ花のみぞ咲く
己乃宇多止多止毛遠寸己之与呂之止幾ゝ天
このうたともをすこしよろしときゝて
この歌どもを、すこしよろしと聞きて
舟乃遠佐之个留於幾奈月己呂久留之幾心也利爾与女留
舟のをさしけるおきな月ころくるしき心やりによめる
舟の長しける翁、月ごろ苦しき心やりに詠める、
堂川浪遠雪可花可止吹風曽与世川ゝ人遠者可留部良奈留
たつ浪を雪か花かと吹風そよせつゝ人をはかるへらなる
立つ浪を雪か花かと吹風ぞ寄せつつ人をはかるべらなる
己乃宇多止毛遠人乃奈爾可止以不遠安留人幾ゝ布个利天与女利
このうたともを人のなにかといふをある人きゝふけりてよめり
この歌どもを人の何かと云ふを、ある人聞きふけりて詠めり。
曽乃宇多与女留毛之美曽毛之安万利奈ゝ毛之人美那衣安良天和良不也宇奈利
そのうたよめるもしみそもしあまりなゝもし人みなえあらてわらふやうなり
その歌詠める文字、三十文字余り七文字。人みなえあらで笑ふやうなり。
宇多奴之以止計之幾安之久天恵寸万禰部止毛衣万禰者寸
うたぬしいとけしきあしくてゑすまねへともえまねはす
歌主、いと気色悪しくて怨ず。真似べども、え真似ばず。
加个利止毛衣与美寸部加多可留部之遣不多爾加久以比加多之満之天乃知爾者以可奈良无
かけりともえよみすへかたかるへしけふたにかくいひかたしましてのちにはいかならむ
書けりとも、え詠み据ゑ難かるべし。今日だにかく云ひ難し。まして後にはいかならむ。
十九日飛安之个礼者舟以多左須
十九日ひあしけれは舟いたさす
十九日、日悪しければ、舟出ださず。
廿日幾乃不乃也宇奈礼者舟以多左数美那人ゝ宇礼部奈計久ゝ累之久心毛止奈个連者
廿日きのふのやうなれは舟いたさすみな人ゝうれへなけくゝるしく心もとなけれは
廿日、昨日のやうなれば、舟出ださず。みな人々憂へ嘆く。苦しく心もとなければ、
多ゝ日乃部奴留加寸遠个不以久可者川可美曽加止加曽不礼者
たゝ日のへぬるかすをけふいくかはつかみそかとかそふれは
ただ日の経ぬる数を、「今日幾日」、「二十日」、「三十日」と、数ふれば、
於与比毛曽己奈八礼奴部之以止和比之以毛禰寸者川可乃月以天爾个利
およひもそこなはれぬへしいとわひしいもねすはつかの月いてにけり
指も損はれぬべし。いとわびし。寝も寝ず。二十日の月出でにけり。
山乃葉毛奈久天海乃奈可与利曽以天久留加也宇奈留遠見天也
山のはもなくて海のなかよりそいてくるかやうなるを見てや
山の端もなくて海の中よりぞ出で来る。かやうなるを見てや、
武可之安部乃仲麿止以比个累人者毛呂己之爾和多利天加部利幾个留時爾
むかしあへの仲麿といひける人はもろこしにわたりてかへりきける時に
昔、阿倍の仲麿といひける人は、唐土に渡りて、帰り来ける時に、
舟爾乃留部幾所爾天加乃久爾人武万乃者那武个之和可礼於之美天
舟にのるへき所にてかのくに人むまのはなむけしわかれおしみて
舟に乗るべき所にて、かの国人、馬のはなむけし、別れ惜しみて、
加之己乃加良宇多川久利奈止之个留安可寸也安利个无
かしこのからうたつくりなとしけるあかすやありけむ
かしこの漢詩作りなどしける。飽かずやありけむ、
者川可乃与乃月以徒留万天曽安利个留曽乃月者海与利曽以天个留
はつかのよの月いつるまてそありけるその月は海よりそいてける
二十日の夜の月出づるまでぞありける。その月は、海よりぞ出でける。
己礼遠見天曽仲末呂乃奴之
これを見てそ仲まろのぬし
これを見てぞ仲麿の主、
和可久爾者加ゝ留哥遠奈无神世与利神毛与武多比以末者加美奈可之毛乃人毛
わかくにはかゝる哥をなむ神世より神もよむたひいまはかみなかしもの人も
「我が国は、かゝる哥をなむ神世より神も詠む給び、今は上中下の人も、
加也宇爾和可礼於之美与呂己比毛安利加奈之比毛安留時爾八与武
かやうにわかれおしみよろこひもありかなしひもある時にはよむ
かやうに別れ惜しみ、喜びもあり、悲しびもある時には詠む」
止天与女利个留宇多
とてよめりけるうた
とて、詠めりける歌、
安乎宇奈者良婦利左个見礼者加寸可奈留美可佐乃也満耳以天之月可毛
あをうなはらふりさけ見れはかすかなるみかさのやまにいてし月かも
青海原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
止曽与女利个留
とそよめりける
とぞ、詠めりける。
加乃久爾人幾ゝ之留満之宇於毛本衣多礼止毛己止乃乎止己毛之爾左満遠加幾以多之天
かのくに人きゝしるましうおもほえたれともことのをとこもしにさまをかきいたして
かの国人聞き知るまじう思ほえたれども、ことの男文字にさまを書き出だして、
己ゝ乃己止波徒多部多留人爾以比以之良世个礼者心遠也幾ゝ衣多利个武
こゝのことはつたへたる人にいひしらせけれは心をやきゝえたりけむ
ここの言葉伝へたる人に云ひ知らせければ、心をや聞き得たりけむ、
以止於毛比乃保可爾奈无女天个留毛呂己之止己能久爾止者己止ゝゝ奈累毛乃奈礼止
いとおもひのほかになむめてけるもろこしとこのくにとはことゝゝなるものなれと
いと思ひの外になむ愛でける。唐土とこの国とは言異なるものなれど、
月能影者於奈之己止奈留部个連八人能心毛於那之己止爾也安良无
月の影はおなしことなるへけれは人の心もおなしことにやあらむ
月の影は同じことなるべければ、人の心も同じことにやあらむ。
佐天以末曽乃可美遠思也里天安留人乃与女留宇多
さていまそのかみを思やりてある人のよめるうた
さて、今、当時を思やりてある人の詠める歌、
美也己爾天山乃者爾見之月奈礼止浪与利以天ゝ浪爾己曽以礼
みやこにて山のはに見し月なれと浪よりいてゝ浪にこそいれ
京にて山の端に見し月なれど浪より出でて浪にこそ入れ
廿一日宇乃時者可利爾舟伊多寸美奈人ゝ能布禰以徒
廿一日うの時はかりに舟いたすみな人ゝのふねいつ
廿一日、卯の時ばかりに舟出だす。みな人々の舟出づ。
己礼遠見礼者春乃海爾秋乃己乃葉之毛知礼留也宇爾曽安利个留
これを見れは春の海に秋のこの葉しもちれるやうにそありける
これを見れば春の海に秋の木の葉しも散れるやうにぞありける。
於保呂遣乃願爾与利天爾也安良武風毛布可寸与幾日以天幾天己幾由久
おほろけの願によりてにやあらむ風もふかすよき日いてきてこきゆく
おぼろけの願によりてにやあらむ、風も吹かず、好き日出で来て、漕ぎ行く。
己乃安比多爾川可者礼无止天川幾天久留和良波安利曽礼可宇多不ゝ奈宇多
このあひたにつかはれむとてつきてくるわらはありそれかうたふゝなうた
この間に使はれむとて、付きて来る童あり。それが歌ふ舟唄、
奈保己曽久爾乃方者見也良留礼和可知ゝ波ゝ安利止之於毛部者加部良也
なほこそくにの方は見やらるれわかちゝはゝありとしおもへはかへらや
なほこそ国の方は見やらるれ我が父母ありとし思へば帰らや
止宇多不曽安者礼奈留可久宇多不遠幾ゝ川ゝ己幾久留爾
とうたふそあはれなるかくうたふをきゝつゝこきくるに
と歌ふぞあはれなる。かく歌ふを聞きつつ漕ぎ来るに、
久呂止利止以鳥以者乃宇部爾安川満利遠利曽乃以者乃毛止爾浪志呂久宇知与寸
くろとりといふ鳥いはのうへにあつまりをりそのいはのもとに浪しろくうちよす
黒鳥と云ふ鳥、岩の上に集まり居り。その岩のもとに浪白く打ち寄す。
加知止利乃以不也宇久呂幾鳥乃毛止爾之呂幾浪遠与寸止曽以不
かちとりのいふやうくろき鳥のもとにしろき浪をよすとそいふ
舵取の云ふやう、「黒き鳥のもとに白き浪を寄す」とぞ云ふ。
曽乃己止者奈爾止爾八奈个礼止毛物以不也宇爾曽幾己衣多留
そのことはなにとにはなけれとも物いふやうにそきこえたる
その言葉、何とにはなけれども、物云ふやうにぞ聞こえたる。
人乃本止爾安者禰者止可武留奈利加久以比川ゝ由久爾布奈幾美奈留人浪遠見天
人のほとにあはねはとかむるなりかくいひつゝゆくにふなきみなる人浪を見て
人の程に合はねば、咎むるなり。かく云ひつつ行くに、舟君なる人、浪を見て、
久爾与利者之女天加以曽久武久為世武止以不奈留己止乎於毛不宇部爾
くによりはしめてかいそくむくゐせむといふなることをおもふうへに
国より始めて、「海賊報せむ」と云ふなることを思ふ上に、
海乃又於曽呂之个礼者加之良毛美那之良計奴奈ゝ曽知也曽知者海爾安留物奈利个利
海の又おそろしけれはかしらもみなしらけぬなゝそちやそちは海にある物なりけり
海のまた恐ろしければ、頭もみな白けぬ。七十、八十は、海にあるものなりけり。
和可ゝ美乃雪止以曽部乃白浪止以徒礼万左礼利於幾川之万毛利
わかゝみの雪といそへの白浪といつれまされりおきつしまもり
我が髪の雪と磯辺の白浪といづれまされり沖つ島守
加知止利以部
かちとりいへ
舵取、云へ
廿二日与武部乃止万利与利己止ゝ満利遠ゝ比天由久者留可爾山見由
廿二日よむへのとまりよりことゝまりをゝひてゆくはるかに山見ゆ
廿二日、昨夜の泊より、異泊を追ひて行く。遥かに山見ゆ。
止之己ゝ乃徒者可利奈留遠乃和良八年与利者於左那久曽安留己乃和良波舟遠己久末ゝ爾
としこゝのつはかりなるをのわらは年よりはおさなくそあるこのわらは舟をこくまゝに
年九つばかりなる男の童、年よりは幼くぞある。この童、舟を漕ぐままに、
山毛由久止見由留遠見天安也之幾己止宇多遠曽与女留曽乃宇多
山もゆくと見ゆるを見てあやしきことうたをそよめるそのうた
山も行くと見ゆるを見て、あやしきこと、歌をぞ詠める。その歌、
己幾天由久舟爾天見礼八安之比幾乃山左部遊久遠末川者之良寸也
こきてゆく舟にて見れはあしひきの山さへゆくをまつはしらすや
漕ぎて行く舟にて見ればあしひきの山さへ行くを松は知らずや
止曽以部留於左奈幾和良波乃事爾天者仁川可者之
とそいへるおさなきわらはの事にてはにつかはし
とぞ云へる。幼き童の云にては、似つかはし。
个不海安良計爾天以曽爾由幾布利奈美乃花佐个利安留人乃与女留
けふ海あらけにていそにゆきふりなみの花さけりある人のよめる
今日、海荒らげにて磯に雪降り、浪の花咲けり。ある人の詠める、
浪止乃美飛止川爾幾个止以呂美礼八由幾止花止爾末可比个留哉
浪とのみひとつにきけといろみれはゆきと花とにまかひける哉
浪とのみ一つに聞けど色見れば雪と花とに紛ひけるや
廿三日日天利天久毛利奴己乃和多里加以曽久乃於曽利安利止以部者神保止个遠以乃留
廿三日日てりてくもりぬこのわたりかいそくのおそりありといへは神ほとけをいのる
廿三日、日照りて曇りぬ。「この渡り、海賊の恐りあり」と云へば、神仏を祈る。
廿四日幾乃布乃於奈之所也
廿四日きのふのおなし所也
廿四日、昨日の同じ所なり。
廿五日加知止利良乃幾多可世安之止以部者舟以多左寸
廿五日かちとりらのきたかせあしといへは舟いたさす
廿五日、舵取らの「北風悪し」と云へば、舟出ださず。
加以曽久遠比久止以不己止多衣須幾己由
かいそくをひくといふことたえすきこゆ
「海賊追ひ来」と云ふこと、絶えず聞こゆ。
廿六日末己止爾也安良无加以曽久遠不止以部者夜中者可利舟遠以多之天
廿六日まことにやあらむかいそくをふといへは夜中はかり舟をいたして
廿六日、まことにやあらむ。「海賊追ふ」と云へば、夜中ばかり舟を出だして
己幾久留美知爾多武計寸類所安利加知止利之天奴左多以万徒良寸留爾
こきくるみちにたむけする所ありかちとりしてぬさたいまつらするに
漕ぎ来る路に手向する所あり。舵取して幣奉らするに、
奴左乃比无可之部知礼者加知止利乃申天多天万川留己止波
ぬさのひむかしへちれはかちとりの申てたてまつることは
幣の東へ散れば舵取の申て奉ることは、
己乃奴左乃知留可多爾美不禰寸美也可爾己可之女多万部止申天多天万川留遠幾ゝ天
このぬさのちるかたにみふねすみやかにこかしめたまへと申てたてまつるをきゝて
「この幣の散る方に御舟すみやかに漕がしめ給へ」と申て奉るを聞きて、
安留女乃和良波乃与女留
あるめのわらはのよめる
ある女の童の詠める、
和多川美乃知不利乃神爾太武計寸留奴左乃於比可世也万寸布可奈无
わたつみのちふりの神にたむけするぬさのおひかせやますふかなむ
わたつみの道触の神に手向する幣の追風止まず吹かなむ
止曽与女留己乃保止爾風乃与計連者加知止利以多久本己利天布禰爾本安計奈止与呂己布
とそよめるこのほとに風のよけれはかちとりいたくほこりてふねにほあけなとよろこふ
とぞ詠める。この程に風のよければ舵取いたく誇りて、舟に帆上げなど喜ぶ。
曽乃遠止遠幾ゝ天和良波毛於幾奈毛以徒之可止於毛部者爾也安良无以多久与呂己不
そのをとをきゝてわらはもおきなもいつしかとおもへはにやあらむいたくよろこふ
その音を聞きて、童も翁も「いつしか」と思ほへばにやあらむ、いたく喜ぶ。
己乃奈可爾阿者知乃多宇女止以不人乃与女留宇多
このなかにあはちのたうめといふ人のよめるうた
この中に淡路の専女といふ人の詠める歌、
於飛風乃婦幾奴留時波由久舟毛保天宇知天己曽宇礼之可利个礼
おひ風のふきぬる時はゆく舟もほてうちてこそうれしかりけれ
追風の吹きぬる時は行く舟も帆手打ちてこそ嬉しかりけれ
止曽天以計乃己止爾川个天以乃留
とそていけのことにつけていのる
とぞ、天気のことにつけて祈る。
廿七日風布幾浪安良个礼者布禰以多左須己礼可礼加之己久奈計久
廿七日風ふき浪あらけれはふねいたさすこれかれかしこくなけく
廿七日、風吹き浪荒らければ、舟出ださず。これかれ、かしこく嘆く。
乎止己多知乃加良宇多爾日遠乃曽女者美也己止遠之奈止以布奈留事乃左万遠幾ゝ天
をとこたちのからうたに日をのそめはみやことをしなといふなる事のさまをきゝて
男たちの漢詩に「日を望めば、都遠し」など云ふなる言の様を聞きて、
安留遠无奈乃与女累
あるをむなのよめる
ある女の詠める、
日遠多爾毛安万雲知可久見留物遠美也己部止思不美知乃者留个佐
日をたにもあま雲ちかく見る物をみやこへと思ふみちのはるけさ
日をだにも天雲近く見る物を都へと思ふ路の遥けさ
又安留人乃与女留
又ある人のよめる
又、ある人の詠める、
吹風乃太部奴可幾利之多知久礼八奈美地者以止ゝ者留个可利个利
吹風のたへぬかきりしたちくれはなみ地はいとゝはるけかりけり
吹風の絶えぬかぎりし立ち来れば波路はいとど遥けかりけり
飛ゝ止比風也万寸川万者之幾之天禰奴
ひゝとひ風やますつまはしきしてねぬ
日一日、風止まず。爪弾きして寝ぬ。
廿八日夜毛寸可良雨毛也万寸計左毛
廿八日夜もすから雨もやますけさも
廿八日、夜もすがら、雨も止まず。今朝も。
対比読下及び訳文付き(3)
十二日安女不良寸不武止幾己礼毛知可布禰乃遠久礼多利之奈良之徒与利武呂川幾奴
十二日あめふらすふむときこれもちかふねのをくれたりしならしつよりむろつにきぬ
十二日、雨降らず。文時、惟持が舟の遅れたりし、奈良志津より室津に来ぬ。
十三日乃安可川幾爾以左ゝ加爾安女布留之波之安利天也美奴
十三日のあかつきにいさゝかにあめふるしはしありてやみぬ
十三日の暁に、いささかに雨降る。しばしありて、止みぬ。
女己礼加礼由安美奈止世无止天安多利乃与呂之幾所爾於利天由久宇美遠見也礼者
女これかれゆあみなとせむとてあたりのよろしき所におりてゆくうみを見やれは
女これかれ、「沐浴などせむ」とて、あたりのよろしき所に下りて行く。海を見やれば、
久毛ゝ美奈浪止曽見由留安万毛加奈以川礼可宇美止ゝ比天之留部久
くもゝみな浪とそ見ゆるあまもかないつれかうみとゝひてしるへく
雲もみな浪とぞ見ゆる海人もがないづれか海と問ひて知るべく
止奈无宇多与女留左天止宇可安末利奈礼者月於毛之呂之
となむうたよめるさてとうかあまりなれは月おもしろし
となむ歌詠める。さて、十日あまりなれば、月おもしろし。
舟爾乃利者之女之日与利舟爾八久礼奈為己久与幾ゝ奴幾寸
舟にのりはしめし日より舟にはくれなゐこくよきゝぬきす
舟に乗り始めし日より、舟には紅濃く、よき衣着ず。
曽礼者宇美乃神爾越知天止以比天奈爾乃安之加計爾己止川个天保也乃川万乃以寸之
それはうみの神にをちてといひてなにのあしかけにことつけてほやのつまのいすし
それは「海の神に怖ぢて」と云ひて、何の葦蔭にことつけて、老海鼠の交の貽貝鮨
数之安者比遠曽心爾毛安良奴者幾爾安个天見世个留
すしあはひをそ心にもあらぬはきにあけて見せける
鮨鮑をぞ、心にもあらぬ脛に上げて見せける。
十四日安可川幾与利安女布礼者於奈之所爾止万礼利布奈幾美世知見寸左宇之毛乃奈个礼者
十四日あかつきよりあめふれはおなし所にとまれりふなきみせち見すさうしものなけれは
十四日、暁より雨降れば、同じ所に泊れり。舟君、節見す。精進物なければ、
武万時与利乃知爾加知止利幾乃不徒利多利之堂比爾世爾奈个礼八与禰遠止利加个天
むま時よりのちにかちとりきのふつりたりしたひにせになけれはよねをとりかけて
午時より後に舵取、昨日釣りたりし鯛に、銭なければ、米を取り掛けて、
於知良礼奴加ゝ留己止奈本安利奴加知止利又多比毛天幾多利与禰左計奈止久累
おちられぬかゝることなほありぬかちとり又たひもてきたりよねさけなとくる
落ちられぬ。かゝること、なほありぬ。舵取、又鯛持て来たり。米酒など、来る。
加知止利気之幾安之可良寸
かちとり気しきあしからす
舵取、気色悪しからず。
十五日遣不安徒幾加由爾須久知於之久奈本日乃安之个礼者為左累本止爾曽
十五日けふあつきかゆにすくちおしくなほ日のあしけれはゐさるほとにそ
十五日、今日、小豆粥煮ず。口惜しく、なほ日の悪しければ、ゐざるほどにぞ、
个不者川可安万利部奴留以多川良爾日遠不礼者人ゝ海遠奈可女川ゝ曽安留
けふはつかあまりへぬるいたつらに日をふれは人ゝ海をなかめつゝそある
今日二十日あまり経ぬる。いたづらに日を経れば、人々海を眺めつゝぞある。
女乃和良波乃以部留
めのわらはのいへる
女の童の云へる。
堂天者太川為礼者又為留不久風止奈美止者思不止知爾也安留良无
たてはたつゐれは又ゐるふく風となみとは思ふとちにやあるらむ
立てば立つゐれば又ゐる吹く風と浪とは思ふどちにやあるらむ
以不可比奈幾毛乃ゝ以部留爾者爾徒可者之
いふかひなきものゝいへるにはにつかはし
云ふ甲斐なき者の云へるには、似つかはし。
十六日風奈美也万禰者奈本於奈之所爾安利止万礼利
十六日風なみやまねはなほおなし所にありとまれり
十六日、風浪止まねば、なほ同じ所にあり泊れり。
多ゝ宇美爾浪奈久之天以徒之可美左幾止以不止己呂和多良无止乃美奈无於毛婦
たゝうみに浪なくしていつしかみさきといふところわたらむとのみなむおもふ
ただ、「海に浪なくして、いつしか御崎といふ所、渡らむ」とのみなむ思ふ。
風奈美止爾ゝ也武部久毛安良寸安留人乃己乃浪多川遠見天与女留宇多
風なみとにゝやむへくもあらすある人のこの浪たつを見てよめるうた
風浪、とにに止むべくもあらず、ある人の、この浪立つを見て詠める歌、
霜多爾毛遠可奴方曽止以不奈礼止奈美乃奈可爾者由幾曽不利个留
霜たにもをかぬ方そといふなれとなみのなかにはゆきそふりける
霜だにも置かぬ方ぞといふなれど浪の中には雪ぞ降りける
佐天舟爾能利之日与利个不万天爾者川可安万利以川可爾奈利爾个利
さて舟にのりし日よりけふまてにはつかあまりいつかになりにけり
さて、舟に乗りし日より今日までに、二十日余り五日になりにけり。
十七日久毛礼留久毛奈久天安可川幾徒久与以止毛於毛之呂个礼者舟遠以多之天己幾由久
十七日くもれるくもなくてあかつきつくよいともおもしろけれは舟をいたしてこきゆく
十七日、曇れる雲なくて、暁月夜、いともおもしろければ、舟を出だして漕ぎ行く。
己乃安比多爾久毛乃宇部毛宇美乃曽己毛於奈之己止久爾奈无安利个留
このあひたにくものうへもうみのそこもおなしことくになむありける
この間に、雲の上も海の底も、同じごとくになむありける。
武部毛武可之乃乎止己者
むへもむかしのをとこは
むべも昔の男は、
佐於者宇加部奈美乃宇部乃月遠布禰者遠曽不宇美乃宇知乃曽良遠
さおはうかへなみのうへの月をふねはをそふうみのうちのそらを
「棹は浮かべ浪の上の月を舟はおそふ海の中の空を」
止者以日个武幾ゝ左礼爾幾个留也又安留人乃与女留宇多
とはいひけむきゝされにきける也又ある人のよめるうた
とは云ひけむ。聞き戯れに聞けるなり。又、ある人の詠める歌、
美那曽己乃月乃宇部与利己久舟乃左於爾左者留者加川良奈留良之
みなそこの月のうへよりこく舟のさおにさはるはかつらなるらし
水底の月の上より漕ぐ舟の棹に障るは桂なるらし
己礼遠幾ゝ天安留人乃又与女留
これをきゝてある人の又よめる
これを聞きて、ある人のまた詠める。
加計見礼者浪乃曽己奈留比左可多乃曽良己幾和多留和礼曽和日之幾
かけ見れは浪のそこなるひさかたのそらこきわたるわれそわひしき
影見れば浪の底なる久方の空漕ぎ渡る我ぞわびしき
加久以不安比多爾夜也宇也久安个留安比多爾由久爾加知止利良
かくいふあひたに夜やうやくあけるあひたにゆくにかちとりら
かく云ふ間に、夜やうやく明ける間に行くに、舵取ら、
久呂幾久毛爾者可爾以天幾奴風布幾奴部之美布禰可部之天武
くろきくもにはかにいてきぬ風ふきぬへしみふねかへしてむ
「黒き雲にはかに出で来ぬ。風吹きぬべし。御舟返してむ」
止以比天舟加部留己乃安比多雨布利奴以止和比之
といひて舟かへるこのあひた雨ふりぬいとわひし
と云ひて、舟返る。この間、雨降りぬ。いとわびし。
十八日奈本於奈之所爾安利宇美安良个礼者舟以多左寸
十八日なほおなし所にありうみあらけれは舟いたさす
十八日、なほ同じ所にあり。海荒ければ、舟ださず。
己乃止万利止本久美礼止毛知可久美礼止毛以止於毛之呂之
このとまりとほくみれともちかくみれともいとおもしろし
この泊、遠く見れども、近く見れども、いとおもしろし。
加ゝ礼止毛久留之个礼者奈爾己止毛於毛保衣須乎止己止知者心也利爾也安良无
かゝれともくるしけれはなにこともおもほえすをとことちは心やりにやあらむ
かかれども苦しければ、何事も思ほえず。男どちは心やりにやあらむ、
加良宇多奈止以布部之舟毛以多左天以多川良奈礼者安留人乃与女留
からうたなといふへし舟もいたさていたつらなれはある人のよめる
漢詩などいふべし、舟も出ださでいたづらなれば、ある人の詠める、
伊曽不利乃与寸留以曽爾八年月遠以川止毛和可奴由幾乃美曽不留
いそふりのよするいそには年月をいつともわかぬゆきのみそふる
磯ふりの寄する磯には年月をいつともわかぬ雪のみぞ降る
己乃宇多者川禰爾世奴人乃己止也又人乃与女留
このうたはつねにせぬ人のこと也又人のよめる
この歌は常にせぬ人のことなり。又、人の詠める、
風爾与留浪乃以曽爾者宇久比寸毛春毛衣之良奴花乃美曽佐久
風による浪のいそにはうくひすも春もえしらぬ花のみそさく
風に寄る浪の磯には鴬も春もえ知らぬ花のみぞ咲く
己乃宇多止多止毛遠寸己之与呂之止幾ゝ天
このうたともをすこしよろしときゝて
この歌どもを、すこしよろしと聞きて
舟乃遠佐之个留於幾奈月己呂久留之幾心也利爾与女留
舟のをさしけるおきな月ころくるしき心やりによめる
舟の長しける翁、月ごろ苦しき心やりに詠める、
堂川浪遠雪可花可止吹風曽与世川ゝ人遠者可留部良奈留
たつ浪を雪か花かと吹風そよせつゝ人をはかるへらなる
立つ浪を雪か花かと吹風ぞ寄せつつ人をはかるべらなる
己乃宇多止毛遠人乃奈爾可止以不遠安留人幾ゝ布个利天与女利
このうたともを人のなにかといふをある人きゝふけりてよめり
この歌どもを人の何かと云ふを、ある人聞きふけりて詠めり。
曽乃宇多与女留毛之美曽毛之安万利奈ゝ毛之人美那衣安良天和良不也宇奈利
そのうたよめるもしみそもしあまりなゝもし人みなえあらてわらふやうなり
その歌詠める文字、三十文字余り七文字。人みなえあらで笑ふやうなり。
宇多奴之以止計之幾安之久天恵寸万禰部止毛衣万禰者寸
うたぬしいとけしきあしくてゑすまねへともえまねはす
歌主、いと気色悪しくて怨ず。真似べども、え真似ばず。
加个利止毛衣与美寸部加多可留部之遣不多爾加久以比加多之満之天乃知爾者以可奈良无
かけりともえよみすへかたかるへしけふたにかくいひかたしましてのちにはいかならむ
書けりとも、え詠み据ゑ難かるべし。今日だにかく云ひ難し。まして後にはいかならむ。
十九日飛安之个礼者舟以多左須
十九日ひあしけれは舟いたさす
十九日、日悪しければ、舟出ださず。
廿日幾乃不乃也宇奈礼者舟以多左数美那人ゝ宇礼部奈計久ゝ累之久心毛止奈个連者
廿日きのふのやうなれは舟いたさすみな人ゝうれへなけくゝるしく心もとなけれは
廿日、昨日のやうなれば、舟出ださず。みな人々憂へ嘆く。苦しく心もとなければ、
多ゝ日乃部奴留加寸遠个不以久可者川可美曽加止加曽不礼者
たゝ日のへぬるかすをけふいくかはつかみそかとかそふれは
ただ日の経ぬる数を、「今日幾日」、「二十日」、「三十日」と、数ふれば、
於与比毛曽己奈八礼奴部之以止和比之以毛禰寸者川可乃月以天爾个利
およひもそこなはれぬへしいとわひしいもねすはつかの月いてにけり
指も損はれぬべし。いとわびし。寝も寝ず。二十日の月出でにけり。
山乃葉毛奈久天海乃奈可与利曽以天久留加也宇奈留遠見天也
山のはもなくて海のなかよりそいてくるかやうなるを見てや
山の端もなくて海の中よりぞ出で来る。かやうなるを見てや、
武可之安部乃仲麿止以比个累人者毛呂己之爾和多利天加部利幾个留時爾
むかしあへの仲麿といひける人はもろこしにわたりてかへりきける時に
昔、阿倍の仲麿といひける人は、唐土に渡りて、帰り来ける時に、
舟爾乃留部幾所爾天加乃久爾人武万乃者那武个之和可礼於之美天
舟にのるへき所にてかのくに人むまのはなむけしわかれおしみて
舟に乗るべき所にて、かの国人、馬のはなむけし、別れ惜しみて、
加之己乃加良宇多川久利奈止之个留安可寸也安利个无
かしこのからうたつくりなとしけるあかすやありけむ
かしこの漢詩作りなどしける。飽かずやありけむ、
者川可乃与乃月以徒留万天曽安利个留曽乃月者海与利曽以天个留
はつかのよの月いつるまてそありけるその月は海よりそいてける
二十日の夜の月出づるまでぞありける。その月は、海よりぞ出でける。
己礼遠見天曽仲末呂乃奴之
これを見てそ仲まろのぬし
これを見てぞ仲麿の主、
和可久爾者加ゝ留哥遠奈无神世与利神毛与武多比以末者加美奈可之毛乃人毛
わかくにはかゝる哥をなむ神世より神もよむたひいまはかみなかしもの人も
「我が国は、かゝる哥をなむ神世より神も詠む給び、今は上中下の人も、
加也宇爾和可礼於之美与呂己比毛安利加奈之比毛安留時爾八与武
かやうにわかれおしみよろこひもありかなしひもある時にはよむ
かやうに別れ惜しみ、喜びもあり、悲しびもある時には詠む」
止天与女利个留宇多
とてよめりけるうた
とて、詠めりける歌、
安乎宇奈者良婦利左个見礼者加寸可奈留美可佐乃也満耳以天之月可毛
あをうなはらふりさけ見れはかすかなるみかさのやまにいてし月かも
青海原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
止曽与女利个留
とそよめりける
とぞ、詠めりける。
加乃久爾人幾ゝ之留満之宇於毛本衣多礼止毛己止乃乎止己毛之爾左満遠加幾以多之天
かのくに人きゝしるましうおもほえたれともことのをとこもしにさまをかきいたして
かの国人聞き知るまじう思ほえたれども、ことの男文字にさまを書き出だして、
己ゝ乃己止波徒多部多留人爾以比以之良世个礼者心遠也幾ゝ衣多利个武
こゝのことはつたへたる人にいひしらせけれは心をやきゝえたりけむ
ここの言葉伝へたる人に云ひ知らせければ、心をや聞き得たりけむ、
以止於毛比乃保可爾奈无女天个留毛呂己之止己能久爾止者己止ゝゝ奈累毛乃奈礼止
いとおもひのほかになむめてけるもろこしとこのくにとはことゝゝなるものなれと
いと思ひの外になむ愛でける。唐土とこの国とは言異なるものなれど、
月能影者於奈之己止奈留部个連八人能心毛於那之己止爾也安良无
月の影はおなしことなるへけれは人の心もおなしことにやあらむ
月の影は同じことなるべければ、人の心も同じことにやあらむ。
佐天以末曽乃可美遠思也里天安留人乃与女留宇多
さていまそのかみを思やりてある人のよめるうた
さて、今、当時を思やりてある人の詠める歌、
美也己爾天山乃者爾見之月奈礼止浪与利以天ゝ浪爾己曽以礼
みやこにて山のはに見し月なれと浪よりいてゝ浪にこそいれ
京にて山の端に見し月なれど浪より出でて浪にこそ入れ
廿一日宇乃時者可利爾舟伊多寸美奈人ゝ能布禰以徒
廿一日うの時はかりに舟いたすみな人ゝのふねいつ
廿一日、卯の時ばかりに舟出だす。みな人々の舟出づ。
己礼遠見礼者春乃海爾秋乃己乃葉之毛知礼留也宇爾曽安利个留
これを見れは春の海に秋のこの葉しもちれるやうにそありける
これを見れば春の海に秋の木の葉しも散れるやうにぞありける。
於保呂遣乃願爾与利天爾也安良武風毛布可寸与幾日以天幾天己幾由久
おほろけの願によりてにやあらむ風もふかすよき日いてきてこきゆく
おぼろけの願によりてにやあらむ、風も吹かず、好き日出で来て、漕ぎ行く。
己乃安比多爾川可者礼无止天川幾天久留和良波安利曽礼可宇多不ゝ奈宇多
このあひたにつかはれむとてつきてくるわらはありそれかうたふゝなうた
この間に使はれむとて、付きて来る童あり。それが歌ふ舟唄、
奈保己曽久爾乃方者見也良留礼和可知ゝ波ゝ安利止之於毛部者加部良也
なほこそくにの方は見やらるれわかちゝはゝありとしおもへはかへらや
なほこそ国の方は見やらるれ我が父母ありとし思へば帰らや
止宇多不曽安者礼奈留可久宇多不遠幾ゝ川ゝ己幾久留爾
とうたふそあはれなるかくうたふをきゝつゝこきくるに
と歌ふぞあはれなる。かく歌ふを聞きつつ漕ぎ来るに、
久呂止利止以鳥以者乃宇部爾安川満利遠利曽乃以者乃毛止爾浪志呂久宇知与寸
くろとりといふ鳥いはのうへにあつまりをりそのいはのもとに浪しろくうちよす
黒鳥と云ふ鳥、岩の上に集まり居り。その岩のもとに浪白く打ち寄す。
加知止利乃以不也宇久呂幾鳥乃毛止爾之呂幾浪遠与寸止曽以不
かちとりのいふやうくろき鳥のもとにしろき浪をよすとそいふ
舵取の云ふやう、「黒き鳥のもとに白き浪を寄す」とぞ云ふ。
曽乃己止者奈爾止爾八奈个礼止毛物以不也宇爾曽幾己衣多留
そのことはなにとにはなけれとも物いふやうにそきこえたる
その言葉、何とにはなけれども、物云ふやうにぞ聞こえたる。
人乃本止爾安者禰者止可武留奈利加久以比川ゝ由久爾布奈幾美奈留人浪遠見天
人のほとにあはねはとかむるなりかくいひつゝゆくにふなきみなる人浪を見て
人の程に合はねば、咎むるなり。かく云ひつつ行くに、舟君なる人、浪を見て、
久爾与利者之女天加以曽久武久為世武止以不奈留己止乎於毛不宇部爾
くによりはしめてかいそくむくゐせむといふなることをおもふうへに
国より始めて、「海賊報せむ」と云ふなることを思ふ上に、
海乃又於曽呂之个礼者加之良毛美那之良計奴奈ゝ曽知也曽知者海爾安留物奈利个利
海の又おそろしけれはかしらもみなしらけぬなゝそちやそちは海にある物なりけり
海のまた恐ろしければ、頭もみな白けぬ。七十、八十は、海にあるものなりけり。
和可ゝ美乃雪止以曽部乃白浪止以徒礼万左礼利於幾川之万毛利
わかゝみの雪といそへの白浪といつれまされりおきつしまもり
我が髪の雪と磯辺の白浪といづれまされり沖つ島守
加知止利以部
かちとりいへ
舵取、云へ
廿二日与武部乃止万利与利己止ゝ満利遠ゝ比天由久者留可爾山見由
廿二日よむへのとまりよりことゝまりをゝひてゆくはるかに山見ゆ
廿二日、昨夜の泊より、異泊を追ひて行く。遥かに山見ゆ。
止之己ゝ乃徒者可利奈留遠乃和良八年与利者於左那久曽安留己乃和良波舟遠己久末ゝ爾
としこゝのつはかりなるをのわらは年よりはおさなくそあるこのわらは舟をこくまゝに
年九つばかりなる男の童、年よりは幼くぞある。この童、舟を漕ぐままに、
山毛由久止見由留遠見天安也之幾己止宇多遠曽与女留曽乃宇多
山もゆくと見ゆるを見てあやしきことうたをそよめるそのうた
山も行くと見ゆるを見て、あやしきこと、歌をぞ詠める。その歌、
己幾天由久舟爾天見礼八安之比幾乃山左部遊久遠末川者之良寸也
こきてゆく舟にて見れはあしひきの山さへゆくをまつはしらすや
漕ぎて行く舟にて見ればあしひきの山さへ行くを松は知らずや
止曽以部留於左奈幾和良波乃事爾天者仁川可者之
とそいへるおさなきわらはの事にてはにつかはし
とぞ云へる。幼き童の云にては、似つかはし。
个不海安良計爾天以曽爾由幾布利奈美乃花佐个利安留人乃与女留
けふ海あらけにていそにゆきふりなみの花さけりある人のよめる
今日、海荒らげにて磯に雪降り、浪の花咲けり。ある人の詠める、
浪止乃美飛止川爾幾个止以呂美礼八由幾止花止爾末可比个留哉
浪とのみひとつにきけといろみれはゆきと花とにまかひける哉
浪とのみ一つに聞けど色見れば雪と花とに紛ひけるや
廿三日日天利天久毛利奴己乃和多里加以曽久乃於曽利安利止以部者神保止个遠以乃留
廿三日日てりてくもりぬこのわたりかいそくのおそりありといへは神ほとけをいのる
廿三日、日照りて曇りぬ。「この渡り、海賊の恐りあり」と云へば、神仏を祈る。
廿四日幾乃布乃於奈之所也
廿四日きのふのおなし所也
廿四日、昨日の同じ所なり。
廿五日加知止利良乃幾多可世安之止以部者舟以多左寸
廿五日かちとりらのきたかせあしといへは舟いたさす
廿五日、舵取らの「北風悪し」と云へば、舟出ださず。
加以曽久遠比久止以不己止多衣須幾己由
かいそくをひくといふことたえすきこゆ
「海賊追ひ来」と云ふこと、絶えず聞こゆ。
廿六日末己止爾也安良无加以曽久遠不止以部者夜中者可利舟遠以多之天
廿六日まことにやあらむかいそくをふといへは夜中はかり舟をいたして
廿六日、まことにやあらむ。「海賊追ふ」と云へば、夜中ばかり舟を出だして
己幾久留美知爾多武計寸類所安利加知止利之天奴左多以万徒良寸留爾
こきくるみちにたむけする所ありかちとりしてぬさたいまつらするに
漕ぎ来る路に手向する所あり。舵取して幣奉らするに、
奴左乃比无可之部知礼者加知止利乃申天多天万川留己止波
ぬさのひむかしへちれはかちとりの申てたてまつることは
幣の東へ散れば舵取の申て奉ることは、
己乃奴左乃知留可多爾美不禰寸美也可爾己可之女多万部止申天多天万川留遠幾ゝ天
このぬさのちるかたにみふねすみやかにこかしめたまへと申てたてまつるをきゝて
「この幣の散る方に御舟すみやかに漕がしめ給へ」と申て奉るを聞きて、
安留女乃和良波乃与女留
あるめのわらはのよめる
ある女の童の詠める、
和多川美乃知不利乃神爾太武計寸留奴左乃於比可世也万寸布可奈无
わたつみのちふりの神にたむけするぬさのおひかせやますふかなむ
わたつみの道触の神に手向する幣の追風止まず吹かなむ
止曽与女留己乃保止爾風乃与計連者加知止利以多久本己利天布禰爾本安計奈止与呂己布
とそよめるこのほとに風のよけれはかちとりいたくほこりてふねにほあけなとよろこふ
とぞ詠める。この程に風のよければ舵取いたく誇りて、舟に帆上げなど喜ぶ。
曽乃遠止遠幾ゝ天和良波毛於幾奈毛以徒之可止於毛部者爾也安良无以多久与呂己不
そのをとをきゝてわらはもおきなもいつしかとおもへはにやあらむいたくよろこふ
その音を聞きて、童も翁も「いつしか」と思ほへばにやあらむ、いたく喜ぶ。
己乃奈可爾阿者知乃多宇女止以不人乃与女留宇多
このなかにあはちのたうめといふ人のよめるうた
この中に淡路の専女といふ人の詠める歌、
於飛風乃婦幾奴留時波由久舟毛保天宇知天己曽宇礼之可利个礼
おひ風のふきぬる時はゆく舟もほてうちてこそうれしかりけれ
追風の吹きぬる時は行く舟も帆手打ちてこそ嬉しかりけれ
止曽天以計乃己止爾川个天以乃留
とそていけのことにつけていのる
とぞ、天気のことにつけて祈る。
廿七日風布幾浪安良个礼者布禰以多左須己礼可礼加之己久奈計久
廿七日風ふき浪あらけれはふねいたさすこれかれかしこくなけく
廿七日、風吹き浪荒らければ、舟出ださず。これかれ、かしこく嘆く。
乎止己多知乃加良宇多爾日遠乃曽女者美也己止遠之奈止以布奈留事乃左万遠幾ゝ天
をとこたちのからうたに日をのそめはみやことをしなといふなる事のさまをきゝて
男たちの漢詩に「日を望めば、都遠し」など云ふなる言の様を聞きて、
安留遠无奈乃与女累
あるをむなのよめる
ある女の詠める、
日遠多爾毛安万雲知可久見留物遠美也己部止思不美知乃者留个佐
日をたにもあま雲ちかく見る物をみやこへと思ふみちのはるけさ
日をだにも天雲近く見る物を都へと思ふ路の遥けさ
又安留人乃与女留
又ある人のよめる
又、ある人の詠める、
吹風乃太部奴可幾利之多知久礼八奈美地者以止ゝ者留个可利个利
吹風のたへぬかきりしたちくれはなみ地はいとゝはるけかりけり
吹風の絶えぬかぎりし立ち来れば波路はいとど遥けかりけり
飛ゝ止比風也万寸川万者之幾之天禰奴
ひゝとひ風やますつまはしきしてねぬ
日一日、風止まず。爪弾きして寝ぬ。
廿八日夜毛寸可良雨毛也万寸計左毛
廿八日夜もすから雨もやますけさも
廿八日、夜もすがら、雨も止まず。今朝も。