竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

墨子 巻八 明鬼下(現代語訳)

2022年08月07日 | 新解釈 墨子 現代語訳文付
墨子 巻八 明鬼下(原文・読み下し・現代語訳)
「諸氏百家 中国哲学書電子化計画」準拠

《明鬼下》:現代語訳
子墨子が語って言われたことには、『(世の中に、)昔の三代の聖王は既に死没してしまったという事態に及び、天下は正義を失い、諸侯は力による政治を行っている。』と。これにより、諸国の人々の、君臣上下の者共に恵と忠の行いは失われ、父子弟兄では慈と孝、長に従い、良に正すような行いが失われ、政治ではその正長は統治のことを聴衆することに努力せず、身分が賤しき人は物事に従事することに努力せず、民衆には淫暴・寇乱・盜賊になるものが居り、兵刃、毒薬、水攻め、火攻めにより、無罪の人が道路を行くときに網に掛け、その人の馬車や衣服を奪い、これにより自分の利益とする者がおり、いろいろな悪行を行うことは、これから始まり、これにより天下は乱れた。このようなことの、これが生じた理由はどのようなことから判るだろうか。これはつまり、皆が、鬼神は存在する、存在しないことへの分別に疑惑を持ち、(昔の人が信じていた)鬼神が賢者を褒賞し、また、暴者を処罰することが(今日では)明らかでないことによる。今、もし、天下の人に対して、共に、もし、鬼神が賢者を褒賞し、また、暴者を処罰することを信じさせれば、天下は、どうして、乱れるだろうか。
今、鬼神の存在は無いとする説を執る者が言うことには、『鬼神は、元より、存在することは無い。』と。朝夕、天下にその説を(民衆に)教育することにより、天下の民衆に鬼神の存在を疑わせ、天下の民衆、その皆に鬼神の存在の有無の分別への疑惑を持たせ、これによって、天下は乱れた。このために子墨子が言うことには、『今、天下の王公大人士の君子は、真に天下の利を興し、天下の害を除くことが必要だと願うなら、それなら、鬼神の存在の有無への分別は、そもそも明察しないといけないものごとである。』と。既に、鬼神の存在の有無の分別については、それは考察しない訳にはいかないとするとした。それでは、私は、鬼神の存在の有無の分別について明察を行うときに、その分別を説き、どのようにすれば明察することが出来るであろうか。子墨子は言われたことには、『この鬼神の存在が天下に有ると無いとを察知する方法は、必ず、民衆の耳目により鬼神の実態が有ると無いとを知ることにより、基準とすべきものである。真に鬼神の実態を聞いた、鬼神の実態を見たとする判断に迷うのなら、必ずその体験により鬼神の実態は有りとし、聞いたことが無い、見たことが無いとするなら、必ずその体験により鬼神の実態は無いとする。このような方法で、試みにある郷、ある里に入り、鬼神の実態を確認してみよう。古代から今まで及ぶまで、民が生まれてこの方、試みに鬼神の姿を見、鬼神の声を聞いたことが有れば、それならば、鬼神の実態はどうして無いと言えるであろうか。もし、聞いたこともなく、見たことも無ければ、鬼神の実態は有ると言えるだろうか。
今、鬼神の存在は無いとする説を執る者が語って言うことには、『天下に鬼神による物事を聞いたり見たりしたことを経験した者は、その人数を取り上げて数えることが出来ず、また、いったい誰が鬼神による物事の有無を聞いたり見たりしたことを経験したのか。』と。子墨子の語って言うことには、『もし、民衆が(昔の人と)同じように見ることと、(昔の人と)同じように聞くことにより鬼神による物事を確認するならば、きっと、昔の杜伯の事例は鬼神による物事に相当するだろう。』と。周国の宣王は其の臣下の杜伯を殺したが杜伯に罪は無かった。杜伯が言うことには、『我が君子が、私を殺して私に罪が無かったのに、もし、杜伯はもう死者だから、その罪の有無を知ることは無いだろうと思うなら、それで恨みは終わる。もし、死んでも、その罪の有無を死者に知ることが有るなら、三年以内に、必ず我が君子に罪の有無を判らせるだろう。』と。その杜伯を殺した三年後、周国の宣王は諸侯を集合させて田圃に狩りを催した。狩りの戦車は数百両、徒歩の者は数千人、人は野に満ちた。昼間、杜伯は白馬に曳かれた装飾の無い戦車に乗り、朱の衣装に朱の冠を着け、朱の弓を執り、朱の矢を手挟み、周国の宣王を追い回し、宣王を戦車から射た。矢は胸に当り脊椎を折り、宣王は己の戦車の中に倒れ、弓袋に伏せて死んだ。この時、周国の人で狩りに従う者でこのことを見なかった者は居らず、この現場から遠くにいた者はこの出来事を聞かなかった者は居らず、このことは書に著して周の春秋に載る。およそ、罪無き者を殺す者は、天帝よりその不祥を得、鬼神はこの不祥の者を誅罰する。この周国の宣王の行いは世に毒をまき散らすようなものである。このような周国の宣王の行いを書の中で解説することにより、この事件を見れば、つまり、鬼神が居ることを、どうして疑うことが出来るであろうか。
ただ、周国の宣王のことを書の中に解説することだけで、鬼神が居ることがこの通りとするわけでは無く、昔の鄭国の穆公は、真昼の日中に宗廟の中に居た時、神が居り、神は門より入り、そして穆公の左側に来た。神の姿は鳥のようであり、着ける白き服は比べようもなく美しく、顔の形は正方形であった。鄭国の穆公は、この神の姿を見、恐怖により奔り逃げるが、神が言うことには、『怖れることは無い、天帝は汝の明徳の奉仕を受け、私に汝に寿命を、新たに十九年を賜らわせ、汝の国家を繁栄させ、子孫の数を盛んにし、福を失わないようにさせる。』と。鄭国の穆公は神への再拝稽首の礼儀を行って言うことには、『失礼ながら、神の名前を聞かせて欲しい。』と。言うことには、『私は句芒である。』と。もし、鄭国の穆公が体験した神の姿を見たことにより、それを祥事とすると、つまり、鬼神が居ることを、どうして疑うことが出来るであろうか。
ただ、このようなことを書の中に解説することだけで、鬼神が居ることがこの通りとするわけでは無く、昔の燕国の簡公は其の臣下の莊子儀を殺したが、莊子儀に罪はなかった。莊子儀が言うことには、『我が君王が私を殺して、私に罪が無い場合、死人がその罪が無かったことを知らないのなら、それなら、恨みは終わる。死人がその罪が無かったことを知ったなら、三年以内に、きっと、我が君にこの罪が無かったことを判らせるだろう。』と。莊子儀を殺した1年の後、燕国の簡公は祖の祀りに戦車を馳せていた。燕国に祖の祀りがあるのは、ちょうど、斉国に社稷の祀りがあり、宋国に桑林の祀りがあり、楚国に雲夢の祀りがあるのと同じである。これは男女が集まって観るものである。真昼に、燕国の簡公がちょうど祖の祀りに戦車を走らせていたとき、荘子儀が朱杖をふるってこれを撃ち、簡公を車上で殺した。この時、燕国の祀りに従う者でこのことを見なかった者は居らず、この現場から遠くにいた者でこの出来事を聞かなかった者は居らず、このことは書に著して燕の春秋に載る。諸侯は伝え聞いて、そしてこの事件のことを語って言うことには、『およそ、罪無き者を殺す者は、天帝よりその不祥を得、鬼神はこの不祥の者を誅罰する。』と。この燕国の簡公の行いは世に毒をまき散らすようなものである。このような燕国の簡公の行いを書の中で解説することにより、この事件を見れば、つまり、鬼神が居ることを、どうして疑うことが出来るであろうか。
ただ、このようなことを書の中に解説することだけで、鬼神が居ることがこの通りとするわけでは無く、昔の宋国の文君鮑の時代、ある臣下が居て、名を𥙐観辜と云う。観辜は以前には厲に仕えており、祩子は儀式で使う威厳の杖を持ち王宮に出向いて観辜に語って言うことには、『観辜、この儀礼の準備はどうしたのか、神事の珪璧の宝物は儀礼の規定を満たさず、御酒や倶物は清らかに造られていない。倶物として捧げる犠牲の家畜は肥えていない。儀礼を行うはずの春秋冬夏、その日程の選択は時期を失っている。さて、お前がこの儀礼を準備したのか。それとも、文君鮑がこれを為させたのか。』と。観辜が言うことには、『文君鮑は幼く、産着の中に居り、文君鮑がどうしてこの儀礼の準備を執り行えるでしょうか。この官臣の観辜が、中心にこの儀礼の準備を行いました。』と。祩子は儀式で使う威厳の杖を掴んだ手を振り上げて観辜を叩くも、観辜を儀礼の壇上に一撃で打ち殺した。この時、宋国の人の儀礼に従う者でこのことを見なかった者は居らず、この現場から遠くにいた者でこの出来事を聞かなかった者は居らず、このことは書に著して宋の春秋に載る。諸侯は伝え聞いて、そしてこの事件のことを語って言うことには、『もろもろの祭祀を敬い慎まない者は、鬼神はこの敬慎しない者を誅罰する。』と。この宋国の観辜の行いは世に毒をまき散らすようなものである。このような宋国の観辜の行いを書の中で解説することにより、この事件を見れば、つまり、鬼神が居ることを、どうして疑うことが出来るであろうか。
ただ、このようなことを書の中に解説することだけで、鬼神が居ることがこの通りとするわけでは無い。昔、齊国の莊君の臣下に、いわゆる、王里國と中里徼と言う者が居り、此の王里國と中里徼との二人は、訴えることがあったが三年経っても、莊君は判決を下さなかった。莊君は訴えた中里徼を以前から殺そうと思っていたが、中里徼に罪が無いことを恐れ、それで中里徼を赦そうと思った。他方、罪が有るのに無罪にすることを恐れ、そこで使いの者を立て、一匹の羊の犠牲を神に供えて、齊国の神に神明を受けることを提案し、王里國と中里徼との二人はこれを許諾した。神臺に溝を刻み、犠牲の羊を切り、その血を溝に注ぎ、王里國が先に訴訟の辞を読み、既に終えた。中里徼が訴訟の辞を読み、それが未だ半ばのとき、犠牲の羊は立ち上がり、中里徼に触れ、中里徼の足を折った。神は神臺から去り、中里徼を枯れ木のように立ち枯らし、中里徼を、神明を受ける神臺に崩れ斃した。この時、齊国の人の神明の儀礼に従う者でこのことを見なかった者は居らず、この現場から遠くにいた者でこの出来事を聞かなかった者は居らず、このことは書に著して齊の春秋に載る。諸侯は伝え聞いて、そしてこの事件のことを語って言うことには、『官位俸禄を求めても先に誠実な行いをしない者は、鬼神はこの不誠実な者を誅罰する。』と。この中里徼の行いは世に毒をまき散らすようなものである。このような宋国の観辜の行いを書の中で解説することにより、この事件を見れば、つまり、鬼神が居ることを、どうして疑うことが出来るであろうか。このようなことで、子墨子が語って言うことには、『深い谷、広々とした林、奥深く物静かな土地に、そこに人は居ないところと思っていても、行うことは正さない訳にはいかず、行いの現れには鬼神が居り、鬼神はその行いを視ている。』と。
今、鬼神の存在を無いとする説を執る者が言うことには、『民衆の耳目の情報は、どうして、それにより鬼神の有無の疑惑を処断することに足りるのか。いかに、天下の高邁な君子になることを願ったとしても、だからと言って、民衆の耳目の情報を信じる者がいるだろうか。』と。子墨子の言うことには、『もし、民衆の耳目の情報により、それが信じるには足りないとし、その信じられないとする判断により、鬼神の有無の疑惑を処断することは出来ない。知らないのか、昔の三代の聖王、堯王・舜王・禹王・湯王・文王・武王のような者は、彼らの事績により法とすることに足りるかどうか。この疑問について、中人より上の身分の者、皆が言うことには、『昔の三代の聖王のような者は、その事績により法とすることが出来る。』と。もし、昔の三代の聖王の事績により法とすることが出来ないとするなら、それでは、しばらく、試みに上代に聖王の事績を見てみよう。
昔、武王が殷を攻め紂王を誅罰した時、諸侯とともに天下の祀りを分かち合った日に、その諸侯との関係が親しき者には内祀りの儀礼を受けさせ、関係が遠い者には外祀りの儀礼を受けさせた。このことから武王は必ず鬼神を祀ることにより鬼神は存在すると為した。この鬼神は存在すると為すことにより、殷を攻め紂王を誅罰し、諸侯に対してその天下の祀りを分かち合った。もし、鬼神が存在しないのならば、つまり、武王はどのような祀りを分かち合ったのだろうか。ただ、武王の事績をそうだとするだけではなく、聖王が配下の者を褒賞する場合、必ず、祖廟において行い、咎人を誅罰する場合、神を祀る社において行う。褒賞することを祖廟で行うことはなぜだろうか。それは褒賞の配分が功績に等しいことを祖に告げるためである。咎人を誅罰することを神に社で行うことはなぜだろうか。それは誅罰の処断を神に聴いたことのとおりであることを神に告げるためである。
ただ、このようなことを著した書が説くことだけを、この通りとするだけではない。すでに、昔の虞夏、商、周三代の聖王といっても、その始めて国を建て、都を営むことを開始する日には、必ず国の神祀りの正壇の地を選び、そこに正壇を置き、それを宗廟とし、必ず、樹木の高く生い茂ったものを選び、立てて正壇左右の叢木とし、必ず、国の中の父兄の内、慈孝貞良の人物を選び、その者を神祀りの祝宗とし、必ず、六畜は優れて肥えて太り毛色に混じり毛のないものを選び、それを神祀りの犠牲とし、宝飾品の珪璧や琮璜は、その時の国の財力を計り程度に合わせて正壇に納め、必ず、五穀は香り豊潤で黄金に熟したものを選び、それにより御酒や倶物を造る。五穀を用いるこの理由があって、御酒や倶物は、年により品質が上下する。年の天候などにより六畜や五穀の状況が変わることから、古代の聖王は天下を治める時、このような理由で最良なもので鬼神を祀ることを先にし、人への配分を後にするとはこのことである。このため、言うことには、『官府の財を使った調達では、必ず祭器祭服を先にして、それをすべて官の蔵に納め、神祀りを掌る祝宗や有司は、ことごとく、朝廷に参列し、神祀りの六畜の新鮮な犠牲の肉は干し肉と同じところに並べない。』と。このようなことで、古代の聖王は政治を行うに際し、示した儀礼を行っていた。古代の聖王は、必ず鬼神に仕えることをもって、王としての務めとし、鬼神に仕えることを国の隅々まで行き渡らせ、また、後世の子孫が知ることが出来なくなることを恐れ、そのために鬼神に仕える記録を木簡や帛布に書き、後世の子孫に伝え残し、或はその木簡や帛布が腐ったり虫が食ったりして絶えて滅して、後世の子孫が木簡や帛布を得るも、その記録が読めなくなることを恐れ、それで記録を盤盂に彫り込み、また、これを金や石に刻み込んで、それにより記録を残すことを重ねた。また、後世の子孫が麕(のろしか)を麒麟と崇め、この邪神を崇めることにより鬼神の祥を受け取ることが出来ないことを恐れた。それで、先代の王の書、聖人の一尺の帛の書、一編の書、これらに語るものに鬼神が載ることは数えきれず、記録を重ねてこれらの物を残し、記録を伝えるためにさらに記録を重ねた。この記録を重ねたのはどういうことだろうか。それは聖王が鬼神に仕えることを務めるためである。今、鬼神の存在は無い説を執る者が言うことには、『鬼神はもともと存在することは無い。』と。それでは、この者の話は聖王の務めに反する。聖王の務めに反することは、つまり、君子たる者の取るべき道ではないことになる。
今、鬼神の存在は無いとする説を執る者が言うことには、『先代の王の書、一尺の帛の書のみならず、一編の書、これらに語るものに鬼神が載ることは数えきれず、記録を重ねてこれらの物を残し、記録を伝えるためにさらに記録を重ねたとは、また、どのような書にこの鬼神のことがあるのか。』と。子墨子の言うことには、『周書の大雅に鬼神のことがある。』と。大雅に言うことには、『文王の魂が天上に在ったとき、天、顕われ、周は古き国と云うけれど、その天帝の命はこれ新たなり。このように周の国は天下に顕われないだろうか、天帝の命は嘉からむであろうか。文王の魂は天上天下を行き来し、天帝の左右に在った。麗しき文王、天帝のご下問は止まず。』と。もし、鬼神の存在が無いのであれば、それでは文王は既に死に、その霊魂はどうして天帝の左右に居ることが出来るであろうか。このことが、私が周書に鬼神のことが載ることを知る理由なのだ。
また、周書にのみ鬼神のことがあって、商書に鬼神のことが無ければ、それではまだ鬼神の存在を規定のこととするには足りない。そこでしばらく試みに、上古の時代を商書に見てみよう。言うことには、『ああ、古代に夏朝があり、未だ禍が無かった時代、百獣・貝・虫から飛ぶ鳥に及ぶまで、道徳にしたがわないものは無い。まして人の顔を持つもの、どうして心を異にするだろうか。山川の鬼神、また、無理に安寧を破ることは無い。もし、共に誠実であれば、これにより天下を共に誠実であることに人々を合わせ、下界の大地を共に誠実であることに保つ。山川の鬼神が無理に安寧を破ることが無いその理由を推察すると、鬼神は、禹王を補佐し禹王が天下の事業を行うことを為させたのである。このことにより、私が商書に鬼神のことが載ることを知る理由なのだ。
また、商書にのみ鬼神のことがあって、夏書に鬼神のことが無ければ、それではまだ鬼神の存在を規定のこととするには足りない。そこでしばらく試みに、上古の時代を夏書に見てみよう。禹王は誓書に云うことには、大いに甘の国と戦う。禹王は左右六人に命じて、戦車から下りて誓の言葉を中軍に聴かせて言うことには、『有扈氏は、五行の教えを侮辱し、三正の行いを怠棄し、天はこれにより有扈氏の命を断絶した。』と。そして、言うことには、『日の有る内に、今、私は有扈氏と一日の命を争う。そこで、お前たち卿大夫庶人よ、私はお前たちの田野や領土、そのような土地が欲しいわけではない。私はお前たちと共に天罰を行うのだ。(三人乗りの)戦車に乗る者の左の者が左側を攻めず、右の者が右側を攻めないのは、命令を聞かないようなものだ。戦車の中央で馬を操る者の、お前が馬の動きを操れないのなら、命令を聞かないようなものだ。』と。有扈氏との戦いにより、禹王は祖廟にて褒賞を行い、神祀りの社で誅罰を行った。褒賞することを祖廟で行うことはなぜだろうか。それは褒賞の配分が功績に等しいことを祖に告げるためである。誅罰することを神に社で行うことはなぜだろうか。それは誅罰の処断を神に聴いたことのとおりであることを神に告げるためである。このために、古代の聖王は、必ず、鬼神の名の神託により賢者を褒賞し、暴者を処罰することを行い、この背景により、褒賞は必ず祖廟において行い、誅罰は必ず神を祀る社において行った。このことにより、私が夏書に鬼神のことが載ることを知る理由なのだ。このため、上古には夏書、その次は商や周の書、その数多くが鬼神のその存在を語り、存在を語る記事を重ね、これを後世に伝えるためにまた重ねた。このことは一体どういうことであろうか、それは聖王が鬼神に仕えることを務めるためである。このような書の説くことがらにより鬼神の存在を見れば、すなわち、鬼神が存在することは、どうして疑うことが出来るであろうか。古代において言うことには、『吉日、丁卯、周代の祝の社方は、社において先祖祖考の祀りを行うことを勧め、それにより寿命は延びる。』と。もし、鬼神の存在が無いならば、周代の祀りを司る祝の社方が、どうして寿命を延すことが出来るであろうか。
このようなことにより、子墨子は言うことには、『嘗て、このように、鬼神は適切に賢者を褒賞し、暴者を処罰した。』と。この賢者を褒賞し暴者を処罰するという、国家の統治の根本のこのことを国家に施し、この施政を万民に施し、誠実に国家を治め万民に利を与える根源はこの統治方法である。もし、賢者を褒賞し暴者を処罰することが統治の方法では無いとするならば、このことにより官吏の治政や行政府は潔白清廉ではなく、また、男女に立場の区分はいらないとするこのものごとを、鬼神はそれを監視するだろう。また、民は淫暴・寇乱・盜賊を行い、兵刃・毒薬・水攻め・火攻めにより、罪無き人を道路に留め、その人の車・馬・衣装を奪うことで自分の利益とするものごとを、鬼神はそれを監視するだろう。この鬼神に常に監視されていることにより、官吏の治政や行政府は、無理に潔白清廉ではないことをせず、善行を見てわざと褒賞しないことはせず、暴力を見てわざと処罰しないことはしない。民は淫暴・寇乱・盜賊を行い、兵刃・毒薬・水攻め・火攻めにより、罪無き人を道路に留め、その人の車・馬・衣装を奪うことで自分の利益とするものごとは、鬼神に常に監視されていることにより止むだろう。このことにより、静穏な世に乱を放つことは起こらず、鬼神の明らかなる存在を規範として、鬼神の照らすところは、ものごとを為す、その一人にあり、その鬼神に常に監視されていることにより鬼神の誅罰を恐れ、このことにより天下は治まる。このため、鬼神の照らすところは、物静かな場所・広大な沼池・山林・深谷の区別をするわけでは無く、鬼神の照らすところは必ずものごとを為す者を知る。鬼神の誅罰は、富貴・衆強、勇力・強武、堅甲・利兵の区別をするわけでは無く、鬼神の誅罰は必ず世の中で強者とされる者に勝る。もし、鬼神の誅罰は世の中の強者に勝るわけではないとするならば、例えば、昔の夏朝の桀王は貴いことに天子となり、富は天下にあった、上に向かって上帝を謗り、鬼神を侮り、下に向かっては天下の万民を咎め侮った。上帝に元山において夏朝の帝の王桀の行いを討伐する兆しがあり、ことここに至って、天帝は、そこで、湯王に対し天明による天罰を桀王に降すことをさせた。湯王は戦車九両により鳥陳鴈行の陣形を執り、湯王は帝が乗る輿に乗り、夏朝の軍勢を駆逐し、湯王の軍勢は郊逐に進撃し、武勇の人、推哆大戲を虜とした。これにより、昔の夏朝の王桀は、貴いことに天子となり、富は天下にあり、武勇強力の人に推哆大戲が居り、大戲は生きたままの虎を割き、指先だけで人を殺し、殺す人民の数は兆億人、この大戲の武勇は殺す人により沼池や山稜を埋め尽くすほどであったが、それでもこの大戲の武勇をもってしても、鬼神の天誅を防ぐことは出来なかった。これが、私が示す、いわゆる、鬼神の誅罰は、富貴・衆強、勇力・強武、堅甲・利兵の区別をするわけでは無いとは、是なのである。
また、このことだけを鬼神の照らすことがらとはしない。昔の殷朝の紂王は、貴いことに天子となり、富は天下にあり、上に向かって上帝を謗り、鬼神を侮り、下に向かっては天下の万民を咎め侮り、長老を捨て去り、幼児を殺し、罪無き人を拷問し、妊婦の腹を割き、庶民老人独夫独婦が生活に困窮し泣き叫んでも、それを王に報告することは無かった。ことここに至って、天帝は武王に対し天明による天罰を紂王に降すことをさせた。武王は天命により戦車百両、武勇の兵士四百人を選び、庶國節を討つに先だって殷朝の軍備の備えを窺い、殷朝の軍勢と牧野で戦った。武王は費中と悪来を虜とし、殷朝の軍勢は命に背き散り散りに逃げ去った。武王は敗走する殷朝の軍勢を追い、王宮に進撃し、萬年梓株の間で紂王を討ち、紂王の遺体を赤環に繋ぎ、その遺体を白旗に載せ、それを示すことで天下諸侯に紂王を誅罰したことを示した。
これにより、昔の夏朝の王桀は、貴いことに天子となり、富は天下にあり、武勇の人、費中、悪来、崇侯虎らは、指先で人を殺し、殺す人民の数は兆億人、この者どもの武勇は殺す人により沼池や山稜を埋め尽くすほどであったが、それでもこの者どもの武勇をもってしても、鬼神の天誅を防ぐことは出来なかった。これが、私が示す、いわゆる、鬼神の誅罰は、富貴・衆強、勇力・強武、堅甲・利兵の区別をするわけでは無いとは、是なのである。
また、魯大夫禽鄭の言葉に、『鬼神の照らすことがらを鬼神の統治の方法と言い、小さな宝石を得ても、それを小さいとしてはいけない、尊祖廟を滅亡させたとしても、それを大きなこととしてはいけない。』と。つまりこのこととは、鬼神が褒賞することがらは、褒賞するには小さいとすることなく、これを褒賞し、鬼神が誅罰することがらは、誅罰するには大きいとすることなく、必ず、これを誅罰すると言う。
今、鬼神の存在は無いとする説を執る者が言うことには、『考えて見ると、親に利を与えることに忠にはならず、また、孝子となることに害ではないだろうか』と。子墨子の言われたことには、『古代に、今の時代で考える鬼神があった、これ以外ではない、天に鬼神は居り、また、山水にも鬼神とされるものが居る、また、人が死んで鬼神となるものが居る。今、子がその父親に先だって死に、弟が兄に先だって死ぬ者が居り、このようであって欲しいと願っていても、このようなことではあるが、天下の故習を固持する者が言うことには、『先に生まれる者は先に死す。』と、もし、このような事であれば、つまり、先に死ぬのが父親でなければ、つまり、母親で、兄でなければ兄嫁となる。今、御酒と倶物の儀礼を行うことは清らかであり、それにより祭祀を敬い慎む。もし、鬼神について本当にその存在が有るのであれば、このことは、死した者の魂である鬼神への祭祀には父母姒兄を参列させ、この人たちに儀礼の後の御酒・倶物・犠牲を飲食させるものであるから、どうして、このことが厚利とならないのであろうか。もし、鬼神について本当にその存在が無いのであれば、このことは、つまり、祭祀での御酒・倶物・犠牲を準備する財を使うことがらに費用を費やしただけとなる。自分から、その祭祀での御酒・倶物・犠牲の費用を費やすということは、特別にこの御酒・倶物・犠牲の物をどぶ川に飲食させ、捨てるためではなく、内にあっては宗族の人々を、外にあっては郷里の人々を、その皆を誘い集い、共に祭祀での御酒・倶物・犠牲を飲食することが目的なのである。鬼神に対してその存在は無いだろうとしても、この宗族の者や郷里の者と共に祭祀を催すことは、それもこのことにより、談笑を交え人々を集い、そして親密の感情を郷里の人々の間に得るべきものである。
今、鬼神の存在は無いとする説を執る者が言うことには、『鬼神はもともとその存在が有るはずがない。だから、鬼神のためにその祭祀の御酒・倶物・犠牲の財を使うわけではない。私は、今、その祭祀の御酒・倶物・犠牲の財を使うことを惜しむわけではない。しかし、その祭祀を催すことで得ることがらとは、貴方にあっては、一体、何なのだろうか。この(親に先だち亡くなった、儒教では不忠となる子の弔いの祭祀は)上にあっては聖王の書の記述に逆らい、内にあっては民人の孝を行う子の行いの規定に逆らう。それでありながら、天下の上士になろうと願っても、このことからすれば、上士になることへの道ではない。』と。このことについて、子墨子の言うことには、『今、私が祭祀を催すことは、ただ、祭祀の御酒・倶物・犠牲の物をどぶ川に飲食させ、捨てるためではない。上にあってはこの祭祀により鬼神の祝福に交わり、下にあっては祭祀により談笑を交え人々を集い、そして親密の感情を郷里の人々の間に得るためである。もし、鬼神が存在するのなら、それなら、祭祀に私は父母弟兄の参列を得て、御酒・倶物・犠牲の物を食べさせるだろう。つまり、これらのことは、どうして、天下の利事にはならないのか。』と。
このことから、子墨子の言うことには、『今、天下の王公大人君子が、真に天下の利を興すに当たり、天下の害を除くことが必要だと思うなら、鬼神は鬼神が存在するように扱い、君子の鬼神への尊敬を民に明らかにしないわけにはいかない、これが聖王となる者の道であるからである。』と。

注意:
1.「徳」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは韓非子が示す「慶賞之謂德(慶賞、これを徳と謂う)」の定義の方です。つまり、「徳」は「上からの褒賞」であり、「公平な分配」のような意味をもつ言葉です。
2.「利」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは『易経』で示す「利者、義之和也」(利とは、義、この和なり)の定義のほうです。つまり、「利」は人それぞれが持つ正義の理解の統合調和であり、特定の個人ではなく、人々に満足があり、不満が無い状態です。
3.「仁」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。『礼記禮運』に示す「仁者、義之本也」(仁とは、義、この本なり)の定義の方です。つまり、世の中を良くするために努力して行う行為を意味します。

おまけの独り言
ブログでの掲載での文字数制限で分割した都合があり、簡単に本篇の本旨を説明します。
墨子が明鬼下篇で示す鬼神への態度は「當若鬼神之有也」です。つまり、「君子は民衆の前では鬼神が存在するように振舞え。」です。これが、墨学での天神鬼神への態度です。そして、「當若鬼神之有也」の態度ですから、墨子は鬼神の存在はほぼ無いだろうとの立場で、鬼神の存在が有れば、それを受け入れる立場です。ただし、統治の為には民衆の信仰を利用して、民衆に対し、「鬼神は存在し、鬼神は常にお前たちの行動を監視している」と、信じさせることが有益と考えています。それが、「是以莫放幽閒、擬乎鬼神之明顯、明有一人畏上誅罰、是以天下治。故鬼神之明、不可為幽閒廣澤、山林深谷、鬼神之明必知之。」の文章に示すもので、人はどこにいても鬼神が行動を照らし暴なる行為には誅罰を降すとの説にあります。日本の「お天道様が見ている」の発想の源流のようなものです。墨子の趣旨は、治安統治を警察力以前に民衆の「人前では犯罪をしない、しにくい」という精神的な抑止力に期待するものです。その「人前」に、民衆の信仰から、もっと大きな網として天界の鬼神による監視と言うものを示し、この信仰を為政者は積極的に普及させて民衆の道徳心を養えとします。
ほぼ、時代関係からすると、この「お天道様が見ている」と云う日本での思想は墨子からのものでしょう。全く、身も蓋も無い話ですが、実務的に統治を行うという観点からの、民衆の風習・信仰を如何に利用するからのものしかありません。この観点からすると鬼神の存在の否定を強める孟子以降の儒教は幼稚となります。逆に鬼神の存在を肯定も否定もしない孔子の態度の方が為政としては適切となります。
なお、加えて、「有恐後世子孫不能敬莙以取羊」の文章が示すように、墨子は、「君子は民衆の前では鬼神が存在するように振舞え」と主張しますが、だからと言って、君子は民衆の風習・信仰に引きずられて、麒麟や白亀などの天の吉祥啓示の迷信に迷うなと釘を刺します。非常に功利的な鬼神思想への扱いです。この態度を進めると荀子の思想背景となります。
ちなみに、「莙」の漢字は、現在では水草の「牛藻」という種類と理解することになっていますが、別に「莙」の漢字には「音麕。義同。」の解説があり、この「麕」は「のろしか」のことで、同時に古代では「麒麟、本網麒麟瑞獣、麕身牛尾馬蹄五彩腹下黄高。」と解説するものです。祭祀儀礼の説文の中で「羊」の漢字を「祥也。」と解釈するのでしたら、「莙」の漢字の意味を古代の祭祀儀礼の中に丁寧に探るのが読解者の基本的な作法です。理解できないとして任意に「校訂」をすると、墨子が思想する論旨を見失います。
さて、標準的な明鬼下篇への理解と、本ブログで示した解釈は同じだったでしょうか。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 墨子 巻八 明鬼下(原文・読... | トップ | 万葉集 集歌3483から集歌348... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

新解釈 墨子 現代語訳文付」カテゴリの最新記事