竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百九八 今週のみそひと歌を振り返る その十八

2017年01月07日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百九八 今週のみそひと歌を振り返る その十八

 今週、取り上げました歌に田部忌寸櫟子と舎人吉年との相聞歌四首がありました。歌番号では集歌492の歌から集歌495の歌までの四首と云うことになります。この田部櫟子は歌の標題に載り、舎人吉年は集歌492の歌の補注に載ります。

田部忌寸櫟子任太宰時謌四首
標訓 田部忌寸(たべのいみき)櫟子(いちひこ)の太宰に任(ま)けらし時の謌四首
集歌492 衣手尓 取等騰己保里 哭兒尓毛 益有吾乎 置而如何将為 (舎人吉年)
訓読 衣手(ころもて)に取りとどこほり哭(な)く児にもまされる吾れを置きに如何(いか)にせむ
私訳 衣の袖にとりすがって泣く子供にも勝って、別れを悲しむ私をこの家に残してしまって、さぁ、貴方はどうなされるの。

集歌493 置而行者 妹将戀可聞 敷細乃 黒髪布而 長此夜乎
訓読 置きに行かば妹恋ひむかも敷栲の黒髪(くろかみ)しきて長きこの夜を
私訳 寝乱れ姿のお前をこの家に残して私が筑紫大宰府に旅立って行くと、お前は私を恋しく思うでしょう。お前は夜床に敷く栲の上に黒い髪を靡かせて共寝したこの長い夜があったから。

集歌494 吾妹兒乎 相令知 人乎許曽 戀之益者 恨三念
訓読 吾妹子を相知らしめし人をこそ恋しまされば恨めしみ念(おも)へ
私訳 愛しいお前を私に会わせた人をこそ、恋い慕う気持ちが募ると、恨めしく思えます。

集歌495 朝日影 尓保敝流山尓 照月乃 不厭君乎 山越尓置手
訓読 朝日(あさひ)影(かげ)色付(にほへ)る山に照る月の飽(あ)かざる君を山越(やまごし)に置きて
私訳 朝日の光に染まる山の、夜通し照る月のように見飽きることのない貴方を、月の隠れるその山の彼方に置いて(私は貴方を慕っています)。

 さて、標準的な歌の解説では「舎人吉年」とは「舎人氏」出身の宮中女嬬「吉年」と云う女性と判断し、歌は九州大宰府に赴任する田部櫟子と吉年との別れに際し、最後に夜を共にした時のものとします。根拠は集歌493の歌の「敷細乃 黒髪布而」ですし、それぞれの歌に詠われる「妹」と云う表記です。なお、巻二に天智天皇の葬儀の場面で額田王の歌に次いで次の歌を詠っていますが、この歌だけですと「吉年」の性別を判定することは出来ません。天皇近習小者である「舎人」であっても良いことになります。

集歌152 八隅知之 吾期大王乃 大御船 待可将戀 四賀乃辛埼  (舎人吉年)
訓読 やすみしし吾(わ)ご大王(おほきみ)の大御船(おほみふね)待ちか恋ふらむ志賀の辛崎(からさき)
私訳 四方八方を承知なされる吾等の大王の乗る大御船を、待ち焦がれているのか志賀の辛崎よ。

 なぜ、「吉年」の性別にこだわるのか、不思議に思われるでしょう。
 その理由は奈良時代 官職を得た成人男子の髪型は冠を被り、支える関係上「髻(もとどり)」を結いますが、未成年の男性は「美豆良(みずら)」と云うお下げ髪スタイルであった為です。有名なところでは倭建命の熊襲征伐で「如童女之髮梳垂、其結御髮」とありますように、男は野良遊びや作業時には髪を耳の高さで左右に束ねていたようですが、時に少女のように束ねた髪を下ろすこともあったようです。その時、衣装によっては美男子が美少女に変身したようです。倭建命の例では倭比賣命の衣と裳を身に付け美少女の姿で宴会に侍り、熊曾建たちを成敗しています。つまり、「吉年」が若い人でしたら、髪の長さだけでは性別が決まらないと云うことになります。
 一方、日本書紀の神功皇后摂政元年に小竹祝の死に際し天野祝が後追い自殺し、生前の仲を考え二人を同じ墓に埋葬した事件を「阿豆那比(あずなひ)之罪」だったとする記事があり、これを同性愛に関する日本最初の記事とします。さらに続日本紀には皇太子道祖王に関して「陵草未乾。私通侍童(陵草未だ乾かず。私に侍童と通ず)」と云う記事があり、これは明確に稚児男色の性嗜好を示す日本最初の記事とします。さらにさらに仏教では平安時代初期までには弘法大師の名を借りて稚児灌頂と云う制度と詳細所作次第を設け、僧侶の稚児男色性嗜好を儀式と云う名目で追認しています。特に平安仏教の中心を為した天台宗では稚児が僧侶と性交することで仏の道に入ることができるとされていたようです。およそ、日本における同性愛や稚児男色の歴史はかように古代から脈々と現代へと流れていたことが判ります。従いまして、万葉集に同性愛を詠う歌があっても不思議ではないと云うことになります。

 このような歴史を踏まえますと、「舎人吉年」を女性と決めつけて良いのでしょうか。もう一つ、「舎人吉年」の相手となる田部櫟子は天智天皇の時代から天武天皇の早い時代の人と思われていますから、集歌152の歌が詠われた時代と集歌492の歌から集歌495の歌までの四首が詠われた時代とは、それほど離れた時代関係ではないとの認識があります。ここから、集歌493の歌を詠った時点でも「舎人吉年」はまだ若い人だったと仮定出来ることになります。
 従いまして、中丁(16歳以上20歳未満の成人)の若者が「侍童」として出仕し、読み書き能力から貴人のそばで仕えますと、律令制度下での内舎人・外舎人と云うものとは違い、伝統から「侍童」ではなく「舎人」と云う呼び名扱いはあったのではないでしょうか。この可能性から、美豆良(みずら)髪スタイルの美男子と云うものも否定が出来ないことになります。
 つまり、云いたいことは「舎人吉年」とは「舎人部」出身の「吉年」と云う女性ではなく、「舎人」と云う職務を執る「吉年」と云う侍童ではないかとことです。そうした時、田部櫟子から見て年下の愛しい若者、それも肉体関係でも愛し合う相手に歌で「妹」と云う性的美称を与える可能性はあると考えます。

 今回、「舎人吉年」と云う言葉の解釈で、男の「舎人」と云う可能性を考えますと、必然、同性愛と云うものを調査する必要がありました。また同時に歌の句に叶うために長い髪の美少年は当時の生活風習で成り立つのかと云う方面も調査する必要もありました。調査からの答えは示した通り、「然り」です。驚かれると思いますが、これが古代史の一面です。なお、日本書紀や続日本紀に同性愛関係の記事を載せますが、内容ではこの性的嗜好には否定的な態度があります。性的嗜好としてそのようなものがあるが、神道的にそれを「阿豆那比之罪」と称するように受け入れがたい行為と云う態度で扱われています。
 ただ、万葉集の歌の鑑賞において、男女で歌を交わす関係ですと屋敷を異にし、妻問ひを行う別家庭が前提となります。一方、同性愛関係の男性同士で一方が未成人ですと、主人の屋敷に養われる侍童や主人に仕える舎人の立場と云う可能性が高いと思います。つまり、住居に関する距離感が違うと考えます。それが本四首組歌での「吾乎置而」や「置而行者」の句に示す言葉感覚と思います。

 今回は標準的な鑑賞とは待ったくに違いますが、このような視点で田部櫟子の歌四首を解釈しています。つまり、暴論であり、酔っ払いの与太話です。

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