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墨子 巻五 非攻上(原文・読み下し・現代語訳)

2022年06月05日 | 新解釈 墨子 現代語訳文付
墨子 巻五 非攻上(原文・読み下し・現代語訳)
「諸氏百家 中国哲学書電子化計画」準拠

《非攻上》:原文
今有一人、入人園圃、竊其桃李、衆聞則非之、上為政者得則罰之。此何也。以虧人自利也。至攘人犬豕雞豚者、其不義又甚入人園圃竊桃李。是何故也。以虧人愈多、其不仁茲甚、罪益厚。至入人欄厩、取人馬牛者、其不仁義又甚攘人犬豕雞豚。此何故也。以其虧人愈多。苟虧人愈多、其不仁茲甚、罪益厚。至殺不辜人也、扡其衣裘、取戈剣者、其不義又甚入人欄厩取人馬牛。此何故也。以其虧人愈多。苟虧人愈多、其不仁茲甚矣、罪益厚。當此、天下之君子皆知而非之、謂之不義。今至大為攻國、則弗知非、従而誉之、謂之義。此可謂知義與不義之別乎。
殺一人謂之不義、必有一死罪矣、若以此説往、殺十人十重不義、必有十死罪矣、殺百人百重不義、必有百死罪矣。當此、天下之君子皆知而非之、謂之不義。今至大為不義攻國、則弗知非、従而誉之、謂之義、情不知其不義也、故書其言以遺後世。若知其不義也、夫奚説書其不義以遺後世哉。
今有人於此、少見黒曰黒、多見黒曰白。則以此人不知白黒之辯矣、少嘗苦曰苦、多嘗苦曰甘。則必以此人為不知甘苦之辯矣。今小為非、則知而非之。大為非攻國、則不知非、従而誉之、謂之義。此可謂知義與不義之辯乎。是以知天下之君子也、辯義與不義之乱也。

字典を使用するときに注意すべき文字
又、猶更也。却也。 さらに、なおさら、かえって、の意あり。
攘、又竊也 ぬすむ、の意あり。
奚、奚取焉 晋から唐代の用法で、なに、の意あり。
従、就也。自也。逐也。 つく、あとをおう、の意あり。


《非攻上》:読み下し
今、一人有り、人が園圃(えんほ)に入り、其の桃李を竊(ぬす)む、衆は聞きて則ち之を非とす。上に政(まつりごと)を為す者は得て則ち之を罰す。此れ何ぞや。人を虧(そこな)ひて自ら利するを以ってなり。人が犬豕(けんし)雞豚(けいとん)を攘(ぬす)む者に至りては、其の不義又(なおさ)ら人が園圃に入りて桃李を竊むより甚(はなはだ)し。是は何の故なるや。人を虧(そこな)ふこと愈(ますま)す多しを以って、其の不仁は茲(ここ)に甚しく、罪は益(ますま)す厚し。人が欄厩(らんきゅう)に入り、人の馬牛を取る者に至りては、其の仁義はならず又(なおさ)ら人が犬豕雞豚を攘(ぬす)むより甚(はなはだ)し。此れ何の故なるや。其の人を虧(そこな)ふこと愈(ますま)す多しを以ってなり。苟(いやしく)も人を虧ふこと愈す多しは、其の不仁は茲(ここ)に甚(はなはだ)く、罪は益(ますま)す厚し。辜(つみ)あらずの人を殺し、其の衣裘(いきゅう)を扡(うば)い、戈剣(じゅうけん)を取る者に至りては、其の不義又(なおさ)ら人が欄厩(らんきゅう)に入り人の馬牛を取るよりも甚(はなはだ)し。此れ何の故なるや。其の人を虧(そこな)ふこと愈(ますま)す多しを以ってなり。苟(いやしく)も人を虧(そこな)ふこと愈(ますま)す多しは、其の不仁は茲(ここ)に甚(はなはだ)しく、罪は益(ますま)す厚し。此れに當(あた)りて、天下の君子は皆知りて而(しかる)に之を非とし、之を不義と謂う。今、大いに國を攻めるを為すに至りて、則ち非(ひ)とするを知らず、従ひて而して之を誉め、之を義と謂う。此れ義と不義と之の別を知ると謂う可(べ)きか。
一人を殺さば之を不義と謂い、必ず一死の罪有りも、若(も)し此の説を以って往(ゆ)かば、十人を殺さば不義は十重し、必ず十死の罪有り、百人を殺さば不義は百重し、必ず百死の罪有らむ。此れ當(まさ)に、天下の君子は皆知りて而(ま)た之を非(ひ)とし、之を不義と謂う。今、至りて大いに不義を為し國を攻むは、則ち非(ひ)とするを知らず、従(つ)きて而(しかる)に之を誉め、之を義と謂ふ。情(おもう)に其の不義を知らず。故に其の言(ことば)を書して以って後世に遺(のこ)す。若(も)し其の不義を知らば、夫れ奚(なに)の説ありて其の不義を書し、以って後世に遺(のこ)さむや。
今、此に人有り、少く黒を見て曰く黒、多く黒を見て曰く白。則ち以って此の人は白黒の辯(わきまえ)を知らずなり。少く苦(く)を嘗(なめ)て曰く苦(く)、多く苦(く)を嘗(なめ)て曰く甘(かん)。則ち必ず此の人を以って甘苦(かんく)の辯(わきまえ)を知らずと為さむ。今、小く非を為さば、則ち而(しかる)に之を非とするを知る。大(おお)いに國を攻むる非を為さば、則ち非とするを知らず、従(つ)きて而(しかる)に之を誉め、之を義と謂う。此に義と不義との辯(わきまえ)を知ると謂う可(べ)きか。是を以って天下の君子、義と不義との辯(わきまえ)の之の乱れを知るなり。


《非攻上》:現代語訳
今、ある人がいて、その人は果樹園に入り、その桃や李を盗む、衆はこれを聞いてその行いを非とする。上の者で政治を行う者はこの報告を得て、この者を処罰する。これはどういうことだろうか。それは他人に損害を与え、自分の利とするからである。人が犬・猪・鶏・豚を盗むような者となっては、それは正義では無く、なおさら、人が果樹園に入って桃や李を盗むより罪の重さは甚だしい。これはどういうことだろうか。人に損害を与えることがいよいよ多いことにより、その仁でないことは甚だしく、その罪はますます重いからだ。人が厩舎に入って、人の馬や牛を盗み取るような者となっては、それは仁では無く、なおさら、人の犬・猪・鶏・豚を盗むより罪は甚だしい。これはどういうことだろうか。その人に損害を与えることがますます多いからである。つまり、人に損害を与えることがますます多いことは、その仁ではないことは甚だしく、罪はますます重い。罪の無い人を殺し、その衣服を奪い、戈や剣を奪い取るような者となっては、それは正義では無く、なおさら、人の厩舎に入り馬や牛を盗み取るよりも罪は甚だしい。これはどういうことだろうか。その人に損害を与えることがますます多いからである。このように人に損害を与えることがますます多いことは、その仁でないことは甚だしく、罪はますます重い。このような場面では、天下の君子は、皆、そのことを知ったのちにこのことを非とし、これを正義では無いと言う。今、大いに国を攻めることを行うに当たっては、他国を攻めることを非とすることを理解せず、そのうえで攻略を誉め、攻略を正義と言う。このことは正義と不正義との区別を理解していると言うことが出来るだろうか。
一人を殺すとこれを不正義と言い、必ず一人を殺した刑罰が有るが、もし、この説明を使うとするならば、十人を殺すと不正義は十倍となり、必ず十人を殺した刑罰があり、百人を殺せば不正義は百倍となり、必ず百人を殺した刑罰が有るだろう。このことはつまり、天下の君子は、皆、これを理解して、そしてこの殺人の行為を非とし、これを不正義と言う。今、大いに不正義を行い、国を攻めることは、つまり、攻略で人を殺すことを非とすることを理解せず、そのうえで攻略を誉め、これを正義と言う。考えると、このことは不正義を理解していないのだ。そのような訳で、他国を攻略し、それが正義だとした言葉を書いて後世に遺す。もし、その他国を攻略することの不正義を理解していれば、いったいどのような理屈により、その他国を攻略した不正義を書き、それを後世に遺すだろうか。
今、ここにある人がおり、ちょっと黒を見て言うには、『黒』、じっと黒を見て言うには、『白』と。すると、このことからするとこの人は白と黒の区別を知らないのだ。ちょっと苦みを舐めて言うには、『苦い』、たっぷり苦みを舐めて言うには、『甘い』と。すると、きっとこの人に対して甘いと苦いとの区別を知らないとするだろう。今、小さく非を行えば、すると、それは非の行いだと理解する。大いに国を攻める非を行えば、すると、それを非の行いだと理解せず、そのうえで攻略を誉め、攻略は正義だと言う。ここに正義と不正義との区別を理解していると言えるのだろうか。このことにより、天下の君子の、正義と不正義との区別の乱れを知るのだ。

注意:
1.「徳」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは韓非子が示す「慶賞之謂德(慶賞、これを徳と謂う)」の定義の方です。つまり、「徳」は「上からの褒賞」であり、「公平な分配」のような意味をもつ言葉です。
2.「利」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは『易経』で示す「利者、義之和也」(利とは、義、この和なり)の定義のほうです。つまり、「利」は人それぞれが持つ正義の理解の統合調和であり、特定の個人ではなく、人々に満足があり、不満が無い状態です。
3.「仁」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。『礼記禮運』に示す「仁者、義之本也」(仁とは、義、この本なり)の定義の方です。つまり、世の中を良くするために努力して行う行為を意味します。
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