森の「下根子桜訪問」自体が虚構
さて、森が「一九二七年の秋」と書くわけにはいかなかった理由は、森の病状がかなり思わしくなかったことが当時かなりの程度世間に知られていたことにもあったからに違いないと私は直感した。そこでそのことを以下に検証してみたい。
◇昭和2年の新聞報道によれば
その頃の森は生出仁と共に「岩手詩人協会」を設立し、機関誌『貌』を創刊するなどの活躍をしていたから、その存在がそれな . . . 本文を読む
ここは花の盛りが過ぎ、だいぶ実がなっていた。
《1 》(2024年3月13日撮影)
《2 》(2024年3月13日撮影)
《3 》(2024年3月13日撮影)
《4 》(2024年3月13日撮影)
《5 》(2024年3月13日撮影)
《6 》(2024年3月13日撮影)
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関 . . . 本文を読む
第二章 羅須地人協会時代の場合
検証もせず裏付けもないままに
さてここまで「昭和六年七月七日の日記」の中の露に関する森の記述内容の検証をいくつかしてみた結果、そこにはどうも信憑性の危ういものがあるということを知った。
このことに関連して上田哲は前掲論文において、
露の〈悪女〉ぶりについては、戦前から多くの人々に興味的に受けとめられ確かな事実の如く流布し語り継がれてきた。多くの本や . . . 本文を読む
ここはこれからどんどん咲いてきそうだ。
《1 》(2024年3月13日撮影)
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第一章 露に関して新たにわかったこと
「向ふの坂の下り口」に露の家があった
ご存知のように、宮澤賢治が下根子桜に移り住んでから約一年後に詠んだのであろう詩の一つに〔同心町の夜あけがた〕がある。それは次のようなものだ。
一九二七、四、二一、
同心町の夜あけがた
一列の淡い電燈
春めいた浅葱いろしたもやのなかから
ぼんやりけぶる東の . . . 本文を読む
ここはこの頃個体数が増えてきた気がする。
《1 》(2024年3月13日撮影)
《2 》(2024年3月13日撮影)
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