みちのくの山野草

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4258 確かにあの『陸軍特別大演習』だった

2014-12-14 08:00:00 | 羅須地人協会の終焉
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
 さて、では写真の人物の氏名を特定してみようと思って『陸軍特別大演習記念写真帖』(岩手日報社)を見てみたならば、次のような二人の写真が載っていた。

               <『陸軍特別大演習記念写真帖』(岩手日報社)より> 
まさしく、下の絵葉書の「第二師団長」「第八師団長」の写真はそれぞれ全く同一人物だあることが判る。

               <『郵便はがき』千鳥印、岩手縣發行>
したがって、この2枚組の絵葉書は昭和3年10月に岩手で行われたの『陸軍特別大演習の記念絵葉書』であることが確実であろう。
 ところが、よくよく透かして?見たみたならば、そのどちらの絵葉書にも浮き彫りの
『ひづめのスタンプ』 

がこのように押してあり、そこには
    陸軍特別大演習 昭和三年十月
と刻印してあった。始めからここに気が付いておれば良かったのだが当初は気が付かず、後の祭りだった。

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6 コメント

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腹黒い野心家だとか ( 辛文則)
2014-12-15 02:54:33
  第八師団長、真崎甚三郎は、皇道派の中心人物で、2・26事件の黒幕とも目される人物。「陰険な策謀家」「腹黒い野心家」「青年将校を裏切った卑怯者」「強きを助け、弱きを虐げる小心慾于億翼翼たる官僚型野心家」などなどと散々な人物評ですが、だ大正12年9月1日に御子Tr他起こった関東大地震のドサクサ紛れに、甘粕正彦らが大杉栄と伊藤野枝夫妻を絞殺した事件の背後にも、少将だった真崎の影が。吉野作造の暗殺も企図していたという風説も。
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そうだったんですか (辛様へ(鈴木))
2014-12-15 10:03:27
辛 文則 様
 またまたご教示ありがとうございました。
 真崎甚三郎なる人物はそのような人物だったんですか。機会があれば、ちょっと調べてみたいです。まして、「甘粕事件」にも関わっていた可能性があるということですから。
                                                                   鈴木 守

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関係文書の廃棄 (辛文則)
2014-12-16 20:11:23
  鈴木守様

  『白堊校百年史』編纂に際しても、『釜南七十年史』編纂に際しても、痛切に感じさせられた事実は、「関係者、とりわけ権力者にとって不利不都合な文書は徹底廃棄されるのだ!」という事実史実なのでした。
  昨今の〈秘密保護法〉問題について、己が内なる「暗澹たる〈気色(けしき)〉」への〈気色(きしょく)の悪さ〉について考量を加えると。
  とりわけひどかったのは、岩手県公文書館保存文書での、日中米十五年戦争敗戦前から敗戦後暫くの間の文書が完全欠落していたことでした。加えて、『釜南七十年史』編纂に関しては、釜南校内に関係文書が残っておらず、五十周年時、六十周年時での校史編纂が頓挫した後を受けての作業開始なのでした。尚、ナニモノカによる「昭和二十年代にトラック2台分の校内関係文書が焼却された」というエピソードが伝えられていたほどでした。
   で、作業は、岩手日報のマイクロフィルムチェック&ピックアップと国立公文書館探査から始められました。その作業の実質的リーダーは菊地強一(黒北卒,ご存知でしょうか)という自称理科屋という考古学者でしたので、石田イズムとは違った意味での掘り起しが。小生に与えられたのは、『白堊校百年史』編纂関係者と知ってか知らずか、「浄土真宗宝珠寺住職渡邉灌水から曹洞宗石応寺住職瀬川午朗へ継承された釜石夜間中学の歴史」でした。岩手県教育史は勿論日本教育制度史にもその名のない「専門学校令に基ずく夜間に授業を行う各種学校」という「資格を与えられない私熟」のような普通中等教育機関です。
で、〈強一チーム〉が国立公文書館文書史料によって明らかにしたのは、「釜石実科高女創立の事実は定説より七年遡る」という動かしようのない史実なのでした。しかし、その歴史的真実は、同窓会ボス権力によって記念式典終了後まで隠匿されたのでした、よ。それに同調した校長判断に異議を唱えた一般教員が一人も出なかったという現実という〈コムフォルミズム(大勢順応主義)〉にはガックリさせられたのでしたが、そんな状況への憤りが、ある意味、却って小生自分自身の立処を判然とさせてくれたということにも。
    で、実は、「ホントウに明らかにしたかった史実や〈人と土壌〉」は、『白堊校百年史』に次ぐ大冊高校史『釜南七十年史・釜石夜間中学史』からは削除されてしまいました。特に、創設者の渡邉灌水と継承者の瀬川午朗の個人史はほぼ全面カットに。たとえば、「瀬川午朗は、継承した翌年の昭和七年に、夜間男子校である同校に、二人の女性英語教師を雇い入れた。」といった、「途方もないエピソード」があっさりとボツに。午朗が単なる〈リベラルフェミスト〉である以上のモナド的個人性の持ち主であったことは。その削除稿を下地にして、釜南紀要に『釜南七十年史異聞』と題して寄稿しましたが、それを読んで電話をしてくれて、「ご苦労さま。やはり、辛さんは〈ひと〉を好きになるんですね。」なんて。このカキモノは、瀬川午朗氏の次男で、当時東京大学ル学部理学部教授(海洋学―大槌東大海洋研究所・釜石平田の同・三陸博覧会の裏ボス.)の瀬川爾朗氏に読んで戴き、感謝されましたよ。金田一一族の出であることを確認したのも。
   固より、〈岩手の赤狩り〉現象は、盛岡や花巻よりも釜石に於いてより激しく現象化していたようです。その因縁が釜石製鉄所にあることは、……。昭和五年限りで、渡邉灌水が瀬川に引き受けて貰わざるをえなくなった因縁はそのあたりにも。因みに、宮澤善治と瀬川・箱崎家が設立者になって大正十四年に花城小学校内に設立された花巻夜間中学は、昭和三年に廃校になり、花巻北高の前史としては扱われていません。因みに、花北高の前史は、佐藤昌介の甥で、高村光太郎や草野心平も参席している〈亡き賢治を偲ぶ会〉記念写真にも映っている佐藤肖を初代校長とする〈組合立花巻中学校〉像でとしています。その前史を穿つと未知なる賢治随聞も、……。
   尚、大正十二年四月創立の盛岡夜間中学は戦後、定時制専門の杜陵高等学校に。宮澤家が設立者になり賢治の母校内に設置された花巻夜間中学と羅須地人協会との間の関係性に着目した賢治研究者は存在するんでしょうかしらん。因みに、昭和十九年の〈中等学校令〉で兵員要請のために設置された釜石陸東中学校や盛岡夜間中学校などの〈夜間中学校〉と、〈各種学校としての夜間中学〉がベツモノであることをハッキリと自覚している教育史家はどの程度居るんでしょうカシラン。
   因みに、〈夜間中学〉の先覚が、明治二十七年の札幌に、メリー夫人に入った遺産を投じて『遠友夜学校』を設立した新渡戸稲造でああることを知ったのは、「新渡戸稲造と宮澤賢治の制止思想精神を現代に掘り起し……」なる『志高創立三十周年誌』の編纂作業に入ってからでした。改めて、〈魂まつり会夜学校〉という名で始め「釜石青年夜間学校→釜石夜間中学」と名称変更した灌水やそれを受け継いだ午朗だけでなく、盛岡夜中に教員を派遣した盛中校長春日重泰や農学校校長藤根吉春 - 太田達人や佐藤北江と共に白堊校第一回生.成立学舎英語学校で、達人や塩原金之助らと共に太田稲造や大隈(南部)英麿から英学を学び、札幌農学校へ.台湾総督府で稲造の下の農業技術者.盛岡で悟空会(藤根禁酒会?)主宰 ― は固より、重泰や吉春と昵懇だった鈴木卓苗の甥である瀬川午朗 ― 昭和八年に私立釜石中学校設立を申請するも当局はあっさり却下.昭和十六年公立釜石夜間中学校設立認可 ―は、「北辺の遠友夜学校」を知っていたのだ、と夢想したくなってしまって。
   とまあ、小生の如き無名の歴史愛好家の夢想乃至妄想憶測を、「北冥の〈鯤(青い魚)〉の如く泳ぎ行き、南冥の〈鵬(朱雀)〉の如く図南するが逍遥遊の志」と遊化遊楽するや如何。
     2014,12,16  文遊理道樂遊民洞による
              知北逍遥遊
  
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毎度ありがとうございます (辛様(鈴木))
2014-12-17 16:43:23
辛 文則 様
 今日は。花巻は小雪が降り続いておりますが、御地は如何ですか。
 先ほどまで『宮沢賢治・花巻市民の会』がありまして出掛けておりました。本日は、賢治の「土性調査」や「地質調査」に関する講話があり、色々と知り、考えさせられました。そして、まだ知られていないことや明らかになっていないことなどを探求することも大事だし、同時に、賢治に関して現時点で間違っているところがあれば地元にいる私たちは地元の利を活かして、それらを正していくことも喫緊の課題なのかなと考えさせられました。なお、本日の講師の安藤勝夫氏(安藤(桜羽場)寛の親戚)も仰っておられましたが桜羽場寛、鈴木卓苗の名前の正式な「よみ」はそれぞれ「かん」「たくみょう」である、親戚の人々は皆そうよんでいたし、二人共にお寺の息子であるが故にも、ということでした。  
 さて、「関係文書の廃棄」についてですが、かくの如きことがあったのですか。恥ずかしながら、「〈岩手の赤狩り〉現象は、盛岡や花巻よりも釜石に於いてより激しく現象化していた」ということまでは考えも及ばずにいました。が、よくよく考えてみれば、花巻が昭和20年8月10日に空襲を受けたのも、前日の8月9日に釜石に空襲があり、そして翌日の後藤野の飛行場が襲われ、爆弾が余ったので帰りの駄賃で花巻に爆弾が落とされたなどという「(あくまでも)話」もありますから、「その因縁が釜石製鉄所にあることは」否めないですね。
 それから、今回のコメントを拝読して、瀬川午朗の業績はもっともっと評価されてしかるべきだと思いました。折角発掘した、「釜石実科高女創立の事実は定説より七年遡る」や、「瀬川午朗は、継承した翌年の昭和七年に、夜間男子校である同校に、二人の女性英語教師を雇い入れた」という動かしようのない「真実」が、無視されたり軽視されたりすることは残念なことです。そしてこのことは、「昭和二十年代にトラック2台分の校内関係文書が焼却された」という行為と裏腹なのでしょう。歴史が明らかにされると困るということでそうしたのでしょうが。
 似たようなことは、私の出身地金ヶ崎に当時あった六原青年道場でもあったそうです。昭和20年8月15日直前に、一切の資料を処分したということです。当時同道場は「北の六原、南の内原」と並び称せられたこともあり、戦意高揚のために寄与した事実、とりわけ満蒙開拓青少年義軍に若者を送り込んだことが詳らかに知られたならば、己が危ういと特に上層部は思ったからなのでしょう。

 それから、「宮澤家が設立者になり賢治の母校内に設置された花巻夜間中学と羅須地人協会との間の関係性に着目した賢治研究者は存在するんでしょうかしらん」についてですが、盛中出身(明39、卒業外会員)で盛中の教諭(大10~14盛中教諭)でもあった八木英三(賢治小学3・4年の時の担任)が著した『花巻町政史稿』の中で、

 私が明治末年に東京の夜間中学に就職していたことがあり、その組織や認可が甚だ簡単なことを知つていたので箱崎圭助や宮沢恒治やに相談したところ積極的に賛意を表してくれ、先代箱崎庄吉が率先して創立者となつてくれ、寄附金の初筆五百円を出資してくれたので話がトントン拍子に進んだ。
 大正十四年の十一月には花巻両町の連合青年会が創立され、岩手日報には花巻両町合併の先駆だと唱道して物議をかもしたが、この青年会には宮沢賢治も賛成で俗世間に顔を出したことのない彼が進んで幹事の一人に参加し、左の五人が理事となつて仕事を統制することになつた。
  宮沢恒治
   箱崎圭助
   八木英三
  佐藤光太郎
  瀬川貞蔵
右の内宮沢、箱崎は花巻川口町係、佐藤、瀬川は旧花巻町係、八木は夜間中学係という分担であつた。

と述べられております。賢治と花巻夜間中学関連で私が知っていることはこれだけです。残念ながら、羅須地人協会との関係については知っておりません。
                                                              鈴木 守
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 訂正です (辛文則)
2014-12-17 19:13:23
   鈴木守様
   一寸心配になって、十数年ぶりで『釜南七十年史』を開き、三十年ほど前の仕事を振り返り思わぬ収穫を得ました。記憶情報の不慥かさに改めて思いが対ったという次第です。当時は全く問題視していなかった様々な事象について再考量するヒントや着眼と出会えたという次第です。
   で、先ず、記憶違いの訂正から。瀬川弥右衛門・宮澤善治・箱崎庄吉(御存知、花巻三大御大家)を設立者として花巻花城小学校内に大正14年4月に創設された〈花巻夜間中学〉の廃校は昭和3年ではなく昭和6年でした。〈組合立花巻中学校〉の創設も同年ですから、両者の間の関係性は、…。「花巻小学校内の仮校舎から」とありますから、〈花巻夜間中学〉との連関性は無視できないように思うのですが、花北高史編纂関係者は左様な問題意識は、…。尤も、小生は『花北高史』の関係外者ですから、…。
   そのもう一つは、訂正ではなく付加です。前報で「金田一一族の出」と記したのは、「瀬川爾朗氏の母、つまり午朗氏の妻」です。午朗氏の想い出に、「盛中に就き親しくして戴いた英語教師にその縁者を妻として紹介いただいた」ということが語られていたものですから。
   で、その英語教師が「リベラリストの平井直衛」となると、春日重泰や太田達人そして橘川眞一郎との人間関係性が浮かび上がってきますし、大正十三年頃からの保守派教員扇動による校長排斥ストライキ頻発という現象から、生徒・教職員のマジョリティが反大正デモクラットに変化していたのではという推論が、…。という次第で、大正十二年九月十二日のテロル事件を思潮の分水嶺と観てとる視座も、…。八月の、新渡戸稲造と内村鑑三の愛弟子であった有島武郎の自死が、三面ゴシップ的見地では片付かないのかも、などと。
守先生の追跡によって、平井の「昭和三年八月依願退職の裏」に隠されていた事実を知り、その前年の新渡戸稲造講演直後の春日重泰の左遷と、賢治の『1927年時点での盛岡中学校生徒諸君へ』の校友会雑誌非掲載と因縁付ける推論思量行為があながち妄想ばかりとは。
  また、折角走り廻って倶楽部創設にまでこぎつけていた佐藤俊介(松本竣介)が、昭和四年三月、白堊校を追われるように退学せざるをえなかった以後にも。実は、竣介のインテリジェンスは、その付属小学校の担任だった佐藤瑞彦というリベラルな浸礼派基督教者(晩年はタピングが創設の内丸教会牧師兼内丸幼幼稚園長)からの感化ですが、瑞彦氏も昭和四年、付属小教諭から羽仁もと子が開いた自由学園に移っており、上京後も俊介との交流は続いたようです。そんな辺りから、小生の父文人の幼少年期(昭和八年四月岩手師範学校美術選科入学、同十二年四月尋常小学校訓導兼青年学校助徼教諭に就いた西洋予音楽愛好者)のイワテモリオカのきな臭さを訝っていたのでした、が。
   因みに、新渡戸稲造の〈遠友夜学校〉を範として、大正14年4月に〈盛岡夜間中学(現杜陵高等学校)〉を創設したのは、盛岡市図書館長だった鈴木勝次郎という人ですが、設立に際しては、学長を、その設立に支援尽力した県学務課長の関壮二に依頼し、自身は学監(副学長・教頭)に就いています。興味深いのは、関壮二が、青年僧の不備な計画を積極的に指導して釜石夜中の設立を支援していることでした。その関と、盛中校長の春日や盛岡農学校校長の藤根吉春とも意思疎通がスムースだったと推論すると、大正十四年十月発足の盛岡夜間中学校評議理事会メンバーが、「新渡戸稲造を囲む悟空会」のメンバーだった可能性も、……。
明治十六年、元南部藩士中原貞七が経営していた東京の成立学舎英語学校において、白堊校第一回生で旧南部家給費生として太田達人と共に、府立一中(日比谷高)から来た塩原金之助(漱石)絞等と共に、札幌農学校卒業後、帝大文学に進学し講師として教壇に立っていた太田(新渡戸)稲造)や、同じく教壇に立つことのあった大隈家の嫡養子に入って東京専門学校初代校長を務めていた大隈(南部)英麿(南部利剛の次男.八年間アメリカ留学.ダートマス大で数学、プリンストン大で天文学の学位取得)から英学を学び、後藤新平が総督を務めた台湾総督府では稲造の部下として働いた藤根吉春が主宰していた新渡戸稲造来盛時の囲む会〈悟空会〉のメンバーの中心を占めていたと夢想することもこともあながち。因みに、小生は、新渡戸稲造が、僅か一年の在学で帝大に見切りをつけ、佐藤昌介も留学したジョンポプキンス大に留学したのは、英麿のつよい進言と学費援助があったと推論しています。
盛岡夜間中学理事の写真には、既に設立されていた私立岩手中学校長鈴木卓苗らしい顔は見当たりませんが、春日重泰、太田達人、平井直衛、〈悟空会〉のメンバーであった可能性は、……。
   昭和三年の〈張作霖爆殺事件〉、同六年の〈満洲事変〉、同七年の〈五・一五事件〉そして昭和八年の国際連盟脱退へと雪崩れ込んで行く時勢の中で、新渡戸稲造は売国奴として極右テロルの標的となり、春日重泰や平井直衛の追放に始まった思想弾圧は、鈴木卓苗や藤根吉春などにも。権力当局からみれば、賢治が反大勢派だとしても、大杉栄や高村光太郎などとは違ってコモノに過ぎなかったでしょうが、賢治自身の反骨心と権力恐怖との両義的感情を想定するというのは、……。
その辺りの小生の憶測妄想と強く関わる賢治作品が、「その憤りが抑え難い」という風な、『盗まれた白菜の根に』『サキノハカという黒い花と一緒に』『一九二七時点での盛岡注が稿中学校生徒諸君に寄せる』『藤根禁酒会に贈る』『春の雲に関するあいまいなる議論』『県技師による雲に関するステートメント』『何をやっても間に合わない』などという塩梅です。
で、守先生は、既にお気づきのこととは思いますが、小生は、それらの作に埋め込まれたテーマを、「農業と天候との関係性」とは切り離して考えているという点で、守先生とは、問題意識も着眼も異にしているという次第です。
という次第で、『藤根禁酒会に贈る』で盛岡夜間中学校理事会メンバーが、藤根吉春が主宰していた新渡戸稲造来盛時の囲む会〈悟空会〉のメンバーの中心を占めていたと夢想することもこともあながち。で、『藤根禁酒会に贈る』での〈藤根禁酒会〉とは「藤根吉春主宰の悟空会」の換喩ではないか、と。〈禁酒〉と〈悟空〉とは、そのメタフーァー性を共有していることは。譬えば、「極めて困難な脱貪欲にして脱依存の成就を」、と。譬えば、「如何なるか、〈万乗君慾・千金子慾・俗界寵児慾なる人間三貪慾への嗜癖依存症を生起させるは?」と自問してみると、……。「そは、他者からの自己承認慾ならん」といった辺りは、藝術愛好癖やら哲学愛好癖に罹患した高校生ともなれば、……。で、その因縁性起は〈人と人との間の関係欲望〉に発するらん、と。で、そうした欲望の起源が概念言語的思考の所産であることを、「哲学書から学習する:声聞道」あるいは「或る有時、サッと閃いた:縁覚道」きはをその因縁とすることは、……。そ稲造の霊魂病や、漱石の神経衰弱、賢治の脳病の因縁を、左様な「声聞あるいは縁覚」に思索めるという着眼や如何。で、そうした、「人間的なあまりにも人間的な悩み」の根源に、「人間が戦争を自己克服できない根源的因縁や如何?」が働いていたりすると。
小生に、老荘思想やゴータマの『スッタニパータ』や『ダンマパダ』まで遡ることを強いたのは。で、三十年ほど前に邂逅したのが、『老子』の〈第三十一・三十章〉という次第でした。言語哲学的には、〈第一・二章〉だったのですが、非戦平和論的には、『老子:三十一・三十章』ということに。実は、小生の、夏目漱石と新渡戸稲造、そして米内光政と鈴木卓苗という〈モナド的個人〉への礙りは、「その生涯の座右の書が『老子』であった」、なのでした。
ソシュール言語学以後の言語哲学を踏まえ、その『草枕』や『吾輩は猫である』を穿ち読みすると、「漱石は『老子第一・二章』を大事にしている」ことは自ずから察せられます。印度哲学や原始仏教までも戻って考えたらしい卓苗は兎も角として、新渡戸稲造や米内光政が、「道可道、非常之道。名可名、非常之名。……、玄之又玄、衆妙之門。」という古道に礙ったとは、……。で、「勝而不美、而美之者、是樂殺人、夫樂殺人者、則不可以得志於天下矣。殺人之衆、以哀悲泣之、戦勝以喪禮処之。」と道う古道に。
   いずれにしても、小生自身の中での、「賢治の〈田中智学日蓮主義〉への雷同化という現象」は、「蓋し不可解!」という難有い問題に。
   2014,12,17  文遊理道樂遊民洞

 ※ あまりにも立ち入り過ぎましたね。でも、こんな
  塩梅が、小生のブログテーマの通奏低音になって   いることは御諒解いただければ、と。ある、哲学大   好きな元社会科担当教師(校長で終わり、予備校
  で小論文指導を行っている山登り)が、小生のブロ   グを読んで曰く。もっと、テーマを絞って、個別に、   短く書かないと、理解して貰える可能性ないんじゃ   ない!と。彼は、もまた2000字シメで相当数の    エッセイを書きためているんですが、世間に発表す  る気はないようです。
返信する
〈藤根禁酒会〉と藤根吉春 (辛様(鈴木より))
2014-12-18 11:08:51
辛 文則 様
 お早うございます。
 花巻もすっかり寒くなり、コタツから離れがたくなってしまいました。
 さて、そんなわけで時間はたっぷりあるのですが済みません、今回のコメントはちょと私には手強すぎて殆ど何も言えません。ただ一つだけ、

 〈藤根禁酒会〉とは「藤根吉春主宰の悟空会」の換喩ではないか

という指摘にはっとしました。この詩が詠まれたのは「 一九二七、九、一六」と考えられると思いますが、一体この当時の賢治は何をしていたのだろうか、ということが私にとっては大きな一つの疑問ですので、その一つのヒントかなと思えたからです。
 では、ますます寒さが厳しくなると思いますんで、どうぞご自愛下さい。
                                                            鈴木 守
返信する

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