《創られた賢治から愛される賢治に》
〝「昭和3年賢治自宅謹慎」のまとめ〟以来しばらく休んでいたが、今回やっとこのシリーズの最終回にたどり着けた。現時点での結論
そこで賢治はどうしたか。多くの「賢治年譜」には昭和3年8月のこととして
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、気候不順による稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、帰宅して父母のもとに病臥す。……☆
となっているが、はたしてそうだったのであろうか。ここまで考察してみての私の結論は、その当時の真相は
昭和3年8月10日に実家に戻った賢治は実はたいした熱があった訳ではないが、主治医佐藤長松博士に頼んで「肺浸潤」であるという病名を付けてもらって重症であるということにし、菊池武雄等の友人が見舞に来ても面会を謝絶していた。ただし賢治の療養実態は、たいした発熱があった訳でもないから療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしいた。
であり、なぜ賢治がそうしたのかといえば 賢治がその時実家に戻った真の理由は、「陸軍特別大演習」を前にして行われた官憲の厳しい「アカ狩り」から逃れるためにであり、賢治は病気であるということにして実家に戻って自宅謹慎、蟄居していた。……◎
というものである。例えばそのことは、
・当時、「陸軍特別大演習」を前にして凄まじい「アカ狩り」が行われた。
・賢治は当時、労農党稗和支部の有力なシンパであった。
・賢治は川村尚三や八重樫賢師と接触があった。
・当時の気象データに基づけば、「風雨の中を徹宵東奔西走」するような「風雨」はなかった。
・当初の賢治の病状はそれほど重病であったとは言えない。
という「事実」からだけでも導かれるのではなかろうか。
そしてなによりも、賢治自身が澤里武治宛昭和3年9月23日付書簡「243」の中で
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
と伝えているが、この「演習」とは「陸軍特別大演習」に他ならないと判断できるからである。
賢治も人の子
そういえば、前掲の書簡「243」の中で
休み中二度もお訪ね下すったさうでまことに済みませんでした。豊沢町に居ることを黒板に書いて置けばよかったとしきりに考へました。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)259pからより>と賢治は教え子武治に悔いている訳だが、あの伊藤忠一の証言
あの頃は私も年が若くて、どのくらい体が悪いんだか察しもつかないで、また良くなればもどってくるだろうぐらいに思って、そのまま別れてしまいあんしたが、それっきりあとは来ながんした。
<『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)37pより>に基づけば、そのようなことを賢治が黒板に書けないほどの病状だったとは思えない。
それよりは、賢治はもともとそのようなことを書く訳にはいかなかったのだと考える方が自然なのかもしれない。賢治は天才だから思い付いたら果敢に実行に移すという性向が際立っていると思うが、これも天才の性向の一つだと思うが諦めもまた早い。賢治は物事を長続きできないという傾向があることは否めない。ここは賢治も人の子、川村尚三や八重樫賢師が特高から厳しい取り調べや圧力を受けて捕まったり、函館へ奔ったりするのを目の当たりにして、賢治は自分も同じような状況に追い込まれるかも知れないという不安や焦燥を当然抱いたであろうこともあながち否定できない。自分もそのようなことから逃れたかったというのが賢治の本音であり、それ故にあの黒板には始めから「豊沢町に居る」等ということは書くつもりがなかったという可能性もない訳ではないと考えるのが自然なのかも知れない。
愛される賢治に
一方で、私がここまで述べてきたようなことは従来の賢治像からはかなり逸脱しているから、私見に対する批判も数多あるであろうことは十分承知している。がしかし、私がここまで展開してきた拙論にも多少の真実はあるのではなかろうかという自信もない訳ではない。
ちなみに私が八重樫賢師であったならば同じように行動したであろうし、関連して賢治のとった一連の言動も普通の人間ならば十分にあり得ることだろうと私には思える。だから逆に、そのことは賢治像にとっては相応しくないということであるという思いが従来の賢治年譜における〝☆〟を創らせてしまったということはないのだろうか。しかし、少なくとも残されている証言等から導き出される帰結は、〝☆〟であるというよりは〝◎〟であるということの方がはるかに合理的ではなかろうか。
奇しくも今年は賢治没後80年であるから、そろそろ創られた賢治を本来の賢治に少しでも近づけるに相応しい時機なのではなかろうかという想いが私には強い。創られた賢治はあまりにも聖人君子過ぎて凡人には近づけない。しかし、「下根子桜時代」の賢治を調べた限りにおいては、賢治にも凡人と同じようなところが少なくない。
そもそも、仮に賢治像としては「不都合な真実」がそこにあったとしても、そのことが明らかになることによって賢治がさらに評価されこそすれ賢治の評価が損なわれることはないと私は確信しているし、多くの人々もそう思っているではなかろうか。それどころか、それまで以上に賢治のことを私達は理解できて、賢治に近づけるようになると思う。そのような賢治は真実の賢治だからであり、その方がはるかに愛される賢治なのではなかろか。そして、そうなれば今まで以上に賢治から学ぶことが多くなるのではなかろうか。
また一方で、宮澤賢治自身こそが一番、創られた己が姿などは望んでいないだろうということも私は確信している。ひたすら求道的な生き方を探ったはずの賢治にとって何が一番かけがいのないものかというと、それは「真実を求め続ける姿勢」だと私は思うからである。
だからそろそろ、
《創られた賢治から愛される賢治に》
移行するに相応しい時機がやってきているということなのではなかろうか。これで、このシリーズは取り敢えず終わりとしたい。
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