みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

3144 昭和3年夏の天候

2013-03-15 08:00:00 | 羅須地人協会の終焉
 花巻のかつての湯口村の、その村長等を務めた阿部晁という人物がいる。その阿部晁は几帳面な日記を付けている。その日記から大正15年~昭和3年の夏の天気について拾ってみると下表のようになる。



              <『阿部晁日記 大正15年、昭和2年、同3年』より>
 そして、阿部晁の家は石神(あの鼬幣神社のある地域)であり、この日記の天気は当時の花巻の天気と考えてほぼ間違いなかろう。
 これで、賢治の下根子桜時代当時の花巻の夏、6月~8月の天気が判った。
 そして、今一番興味深いのは昭和3年の6月~8月の天気である。
 上表の〝薄紫色〟の部分は昭和3年に限って言えば、賢治が下根子桜に居なかった期間(6月の上京・大島行、8月の自宅病臥)なので、この部分を除いた部分、即ち昭和3年の夏に下根子桜に居たと思われる期間を眺めて見る。すると…やはり変である。

 以前〝「賢治年譜」の昭和3年8月〟で列挙したように殆どの「賢治年譜」の賢治昭和3年8月の記載は
 八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
となっているものであったが、どうやらこの記載は説得力に欠けている。
 上の表に基づく限りは、昭和3年の晴れた日に一日だけは風が吹いたようだが、〝風雨〟であった日はこの年の夏にはなかったと判断できるし、そもそも雨そのものが、7月の初めだけは降ったものの、その後は殆ど降らなかったと考えてよさそうだからだ。
 実際、阿部晁自身も次のように日記に記している。
・昭和3年7月5日:本日ヨリ暫ク天気快晴
・ 同年 9月18日:七月十八日以来六十日有二日間殆ント雨ラシキ雨フラズ土用後温度却ッテ下ラズ 今朝初メテノ雨今度ハ晴レ相モナシ 稲作モ畑作モ大弱リ
 よって、大正15年の夏のような天候ならばまだしも、昭和3年のこのような天候であったならば賢治が昭和3年8月10日に実家に戻ったのは
  風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪…
であったため、とはやはり言えなさそうだ。

 そして、『阿部晁日記』の天候のしっかりした書き方を知ってしまうと、例えば昭和2年の8月19,20日の天気を知ってしまうとやはりあの「和風は河谷いっぱいに吹く」のことが心配になってしまう。そして、8月20日付の一連の詩のことが気になってしまう。

 ”『昭和3年賢治自宅謹慎』の目次”に戻る。
続きの
 ”伊藤儀一郎からの事情聴取”へ移る。
 前の
 ”昭和3年夏の気象データから”に戻る。

 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 3143 ミスミソウ満開 | トップ | 3145 創られた賢治より愛され... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

羅須地人協会の終焉」カテゴリの最新記事