みちのくの山野草

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2447 「賢治年譜の問題点」より(その2)

2011-12-07 08:00:00 | 賢治関連
 〝「賢治年譜の問題点」より(1)〟の続きである。
 堀尾青史氏はこのインタビューにさらに次のようにも答えている。
――これは重要な資料だと思いますが、昭和二年二月一日に、「岩手日報」に羅須地人協会の紹介記事が載りまして(六一五頁)、その後「日時不明であるが、花巻警察署伊藤儀一郎の事情聴取があったためと思われる」とあります。年譜では三月頃で集会が終わっていますが、このことと関係があるのでしょうか。
堀尾 これは左翼的な思想や、社会主義的の立場からではない――いわゆる危険思想での取り調べではなかったようです。しかし、警察に呼び出されたということは当時としては大変です。…(略)…警察からにらまれている、そのため若者に迷惑をかけてはいけないと集会をやめるようになったことは、伊藤克己(ママ、巳?<*>)の記録(「先生と私達」)で証明されると思うんです。……①
――伊藤さんによりますと、解散は二月一日の新聞以降ということですが、実際の講義は続いていますね。三月でほぼ消える。新聞の紹介はむしろ好意的ですね。だからおそらく厳しい取り調べではなかったんでしょう。一つは文化活動の持っている意味を、本人は考えていたんじゃないかな。その次に無料肥料設計相談所の仕事に移りますから。農民活動が方向転換した、重要なキッカケになったものじゃないか……。

<『國文学 宮沢賢治』(昭和53年2月号、學灯社)より>
<註*:気になったので本日(12月8日)下根子桜に訪ねて行って地元の人に聞いたところ、伊藤克己は〝巳〟でなくて〝己〟でいいのだ、ということであった。> 
 そこで、六一五頁を実際に確認したい。もちろんそれは『校本年譜』のそれである。
 そこにはまず昭和2年2月1日の新聞記事
 同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである、目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画…
が転載されていて、その後に次のように記載されている。
 協会員伊藤克己によると、賢治は「其の晩(編者注・必ずしも当夜を示すのではなく集会の夜かもしれない)新聞を見せて重い口調で誤解を招いては済まない」と言いオーケストラを一時解散し、集会も不定期になったという。(伊藤克己「先生と私達」三一年版全集『研究』二八〇頁)。誤解云々は思想問題を指すもので、社会主義教育を行っているとの風評もあり、日時不明(三月か)であるが、花巻警察署伊藤儀一郎の事情聴取があったためと思われる。……②
<『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)より>
 なお『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)も当該箇所は全く同じである。

 さて、このインタビューの応え方①と、実際堀尾氏が担当したこの「校本年譜」の記載内容②との間には一部矛盾がありそうな気がする。また、私自身ははたして真相はこの「校本年譜」どおりであったのか、と今までは疑問符を持っていた。
 ところが、このインタビューは堀尾氏が「校本年譜」の作成を完了したことを受けてのインタビューだから、この時の堀尾氏はそれまでの「②」ではなくて「①」を採っているということになると思う。私も今まで「②」については疑問符があったし、実は「①」でなかろうかと思っていたことなので、これを機に、昭和2年2月1日の新聞記事に関連しては①が実相だったと意を強くし、改めて①でいいのだと再認識したい。

 さてそのような認識に基づいて考えてみれば、何かすっきりしないなと思っていることの一部が、私とすればちょっと解消される。
 今まで私は、もし②に基づくとするならば賢治はこの新聞報道により危険思想の持ち主と思われてしまうのではなかろうかということを恐れたので、それまでのような活動は中止してしまったのだと推論せねばならぬと考えていた。ところが、ならばどうして講義や「集リ」の方は中止せずにその後もしばらく続けていったのだろうか。
 因みに「新校本年譜」によればで投稿したように
 ・昭和2年2月27日 この日付で「規約ニヨル春ノ集リ」の案内葉書(謄写版刷り)を作成し、発送する。
 ・同3月 4日 2月27日付案内による「春ノ集リ」が開かれたと見られる。
湯口村の高橋末治の日記によると「組内の人六人宮澤先生に行き地人協会を始めたり 我等も会員と相成る」。
と「新校本年譜」にはなっている。
 さらには、「新校本年譜」では新たに見つかった資料に基づき
 ・同4月10日 「羅須地人協会農芸化学協習」として「昭和二年度第一小集」を開催。
とも記載されている。
 なんと、〝三月でほぼ消える〟どころか少なくとも4月にもそれまでのような活動が行われていたことになる。

 したがって、以前〝昭和2年2月1日後の賢治(後編)〟の「5.現時点での結論」で述べた私見はそれほど実相からかけ離れてはいないのではなかろうか、と今は思っている。
 つまり、
 隣の村々が窮状にあるというのに賢治は若者達を集めて何を暢気なことをしているのか、今はそんなことをしている時勢にはないだろう。多くの若者たちがこの惨状を何とかしようとしてボランティア活動のために駆けずり回っているのに、夜な夜な下根子桜の宮澤家の別荘に「いい若者たち」が集ってギコギコ音を立てながら音楽活動をやっているとは情けない。そんなことをしている金と暇があるならばならば少しは隣村のために何か支援活動をしろ。おそらく、この新聞報道を切っ掛けとして賢治たちの活動内容が公となったがためにこのような誹りを受けかねないと賢治は察知したのではなかろうか。そういう訳で賢治は楽団活動だけは即刻止めてしまったのではなか。
という見方は結構的外れでもないのではなかろうかということが、当時の社会的情勢に鑑みても言えそうだと思っていたし、インタビュアーの境忠一氏が(遠慮して婉曲的な言い回しをしているのだと思うが)
 「一つは文化活動の持っている意味を、本人は考えていたんじゃないかな」
と呟いていることからも言えそうだ、と私は確信を深めたのだった。
  
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