みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

昭和8年9月20日の面談

2020-01-21 16:00:00 | 『宮沢賢治の声 啜り泣きと狂気』より
〈『宮沢賢治の声 啜り泣きと狂気』(綱澤 満昭著、海風社)の表紙〉

 ではここからは、新しい章「山男への思い」に入ろう。すると早速こんなことが述べてあったので興味をひかれた。
 賢治はこの山男を客観視するのではなく、一体となって、全身で溶け込み、その心性を自分のものとする。賢治自身が山男であり、縄文人なのである。
 ところが、賢治の現実世界においては、死の直前まで、農業、農民のことが気がかりであった。彼の病状は極端に悪くなり、横たわって呼吸するだけといったいわば瀕死の状態のとき、農民の訪問を受け入れ、相手をするのである。昭和八年九月二十日のことである。
 「年譜」にこうある。

 「夜七時ころ、農家の人が肥料のことで相談にきた。どこの人か家の者にはわからなかったが、とにかく来客の旨を通じると『そういう用ならばぜひあわなくては』といい、衣服を改めて二階からおりていった。玄関の板の間に正座し、その人のまわりくどい話をていねいに聞いていた。家人はみないらいらし、早く切り上げればよいのに焦ったがなかなか話は終わらず、政次郎は憤りの色をあらわし、イチははらはらして落ちつかなかった。」(堀尾青史『宮沢賢治年譜』筑摩書房、平成三年、三一一頁)

 文字通り、命をかけての対応である。自己犠牲、贈与の精神が如実に見られる。契約関係の世界では理解できないものである。
 この賢治の献身的努力、そして彼の農民を思う気持ちは、いつもやさしく、温かかった。
             〈『宮沢賢治の声 啜り泣きと狂気』(綱澤 満昭著、海風社)58p~〉
 そしてここまできて、懸案の「真の贈与」の意味が私なりにやっと少しだけだが解った気がした。それは、
    賢治の「真の贈与」≒「農民を思う気持ちはいつもやさしく、温かい賢治の献身的努力」 
という近似式が成り立つのかと。そしても、上掲の「年譜」に書かれているような賢治であれば、「文字通り、命をかけての対応である。自己犠牲、贈与の精神が如実に見られる。この賢治の献身的努力、そして彼の農民を思う気持ちは、いつもやさしく、温かかった」であろう。もちろんそれは、あくまでもそれが事実であったとすればの話ではあるが。

 しかし、一方で上掲の「年譜」の記述内容は常識的にはあり得ないということにもまた私たちは気付くはず。例えば、実証的賢治研究家として著名な故菊池忠二氏がこう疑問等を投げかけているようにだ。
『私の賢治散歩 下巻』 330p
      前夜の面談
 それにしても三十七年の短かい生涯だった宮沢賢治の最後は、伝えられる通りだとすれば、なんという見事なものであったろうか。
 とくに昭和八年(一九三三)九月二十日、死の前日の夜に来訪した農民と稲作や肥料の相談に一時間ちかくもていねいに応じたということは、賢治らしい生涯の最後をかざるにふさわしい、まことに英雄的なエピソードであったと思われる。…投稿者略…たしかな事実であったかもしれないが、またいくつかの疑問な点のあることも感じないわけにはいかない。
 この年九月十九日の夜は、当時の花巻祭りの最終日であり、宮沢賢治は御旅屋から鳥谷ヶ崎神社の本殿にかえる神輿をぜひ拝みたいというたっての希望で、店先にたってそれを見送ったといわれている。このころになると岩手における昼夜の気温差は、いちじるしくなるのが通例である。この十九日はとくに好天で朝の気温八・三度が日中には二三・八度まで上っており、その落差はなんと一五・五度にもおよんでいる。(翌日の「岩手日報」)それは夜になっても同じことだったであろう。…投稿者略…この冷たい夜気にあたったことが、長期の療養生活で体力のおとろえていた賢治に大きな影響をあたえずにはおかなかった。
 この時の様子について叔父の宮沢磯吉は、二階の病室から賢治をみんなでおろして店先で拝ませたものだった、という回想を後年「岩手日報」に寄せていた。今から三十余年も前のことで、その記事の切りぬきを失ってしまったからたしかめようがないけれども、私はそれほど賢治が衰弱していたんだなという印象をつよくもったことを覚えている。『賢治年譜』にも「九月十九日」の項に、「……みんなで手伝って二階からおろし、門のところへ出て」神輿を拝んだことが記されているから、それは事実であったと思われる。
 翌二十日の朝呼吸が苦しくなり容体が変ったので、花巻共立病院の医師の往診をうけ、急性肺炎のきざしがみとめられたという。絶筆の短歌二首が書かれたのもこの日である。そしてこの日の夜七時ころ農民の来訪をうけることになったのである。私はこの知らせを誰が、どのようにして、賢治本人のところへ取りついだのか疑問なのである。この日の賢治の病状からすれば、そのわけを話して農民にひきとってもらうことも十分できたはずである。…投稿者略…それを奥の二階の病室にいる賢治のところへ、直接に取りつぐことがはたしてできたのだろうか。すくなくとも店とつづきの常居にいた家長である父政次郎にこのことを知らせ、相談のうえでその許しをえなければ、とうてい賢治のところに取りつぐことはできなかったはずである。
 もしほかの「誰か」が宮沢家の家人をさすとすれば、この日賢治の容体がどのように変っていたかを、もっとよく知っていたはずの家族の「誰か」が、農民からの用件を不用意に本人へ取りつぐのだろうか。やはり父親なり母親と相談のうえでなければ、とてもできないことだったのではなかろうか。
 このことで父政次郎が、どのような判断をくだしたのか皆目わからない。あるいは短かい時間の面談ならやむをえないとでも考えたのだろうか。それとも農民がやってきたとき、たまたま父親が常居の座をはずしていたのだろうか。ともかくこの件は、賢治のところへ取りつがれたものらしい。
 それを聞いた彼は「そういう用事ならぜひ会わなくては」といって衣服をあらため、二階からおりて農民のまっている店先へ出たのだという。どの記録をみても、まったく自力で歩いて出たような印象をうける。しかし前記の宮沢磯吉の回想や『賢治年譜』の記述が事実であったとすれば、このとき賢治は自力で店先まで歩いてゆくことができたのかどうか<*1>、はなはだ疑問なのである。
 もし家族の手をわずらわしてまで出たのだとするならば、それほど農民が急ぎの大事な用件をもってきたのだろうかと思う。岩手におけるこの年の稲作は近来にないほどの大豊作だった。…投稿者略…たぶんその農民は、この年のめぐまれた収穫を思いえがきながら、次年度の稲作とその肥料相談にやってきたのであろう。ことは急を要する問題ではなかったのだ。…投稿者略… それでも、このときの両者の対談は一時間ちかくにもおよんだといわれている。その間賢治は店内の板敷に正座して、農民のとつとつと話す質問にわかりやすく答えながらていねいに応対し、そのいきさつを蔭で見守る家族の方はバラバラしながら早く終わってくれるのを祈るようにまっていたという。
 私にとっての最後の疑問は、翌日の昼すぎに臨終をむかえるはどの重い結核の病人が、前の晩に正座して一時間ちかくもはたして対談できるものだろうか、という点である。もっともそういう対談で無理をしたからこそ、病勢が急にあらたまってしまった、という事情もあるにはちがいない。…投稿者略…
 もしこの事実が、宮沢賢治のたぐいまれな利他的精神のあらわれとして、これからも末長く語り伝えられてゆくものとするならば、私の感じたこれらの小さな疑問が、すこしでも明らかになってほしいものだと、願わずにはいられないのである
             〈「「雨ニモマケズ」私考」(『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著、2006年)330p~〉

 私はこうして「年譜」と上掲の菊池氏の「前夜の面 談」とを読み比べてみると、私の常識は後者の記述の方が遥かに説得力があると判断してしまう。そして、ここ十数年賢治に関することを私は検証し続けてきたが、その結果は、
    常識的におかしいと思われる事柄を検証すると、殆どすべてがやはり皆おかしかった。
からなおさらにそう思えて仕方がない。

<*1> 泉沢善雄氏の論考「賢治エピソード落穂拾い<2>」において、次のような高橋実氏の証言が紹介されていた。
 賢治死去の前日だと思いますが、仕事で出かけた父が『病気と聞いているがどんな具合か』と自宅に見舞ったところ、特別の人以外に会わなかった賢治が、鍛冶町の高喜ですと伝えたところ『高喜さんなら是非会いたい』と言って短時間だが面会したそうです。大分悪いように見えたということです。
            <『ワルトラワラ第二十二号』(松田司郎編、ワルトラワラの会)70p>
 常識的には、せいぜいあり得るのは「高喜」のケースまでであり、「どこの人か家の者にはわからなかった」来客に対して、賢治が「「そういう用事ならぜひ会わなくては」といって衣服をあらため、二階からおりて農民のまっている店先へ出た」というケースはほぼあり得ないだろう。

 続きへ
前へ 
 〝『宮沢賢治の声 啜り泣きと狂気』より〟の目次”に戻る。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
 本書は、「仮説検証型研究」という手法によって、「羅須地人協会時代」を中心にして、この約10年間をかけて研究し続けてきたことをまとめたものである。そして本書出版の主な狙いは次の二つである。
 1 創られた賢治ではなくて本統(本当)の賢治を、もうそろそろ私たちの手に取り戻すこと。
 例えば、賢治は「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」し「寒サノ夏ニオロオロ歩ケナカッタ」ことを実証できた。だからこそ、賢治はそのようなことを悔い、「サウイフモノニワタシハナリタイ」と手帳に書いたのだと言える。
2 高瀬露に着せられた濡れ衣を少しでも晴らすこと。
 賢治がいろいろと助けてもらった女性・高瀬露が、客観的な根拠もなしに〈悪女〉の濡れ衣を着せられているということを実証できた。そこで、その理不尽な実態を読者に知ってもらうこと(賢治もまたそれをひたすら願っているはずだ)によって露の濡れ衣を晴らし、尊厳を回復したい。

〈はじめに〉




 ………………………(省略)………………………………

〈おわりに〉





〈資料一〉 「羅須地人協会時代」の花巻の天候(稲作期間)   143
〈資料二〉 賢治に関連して新たにわかったこと   146
〈資料三〉 あまり世に知られていない証言等   152
《註》   159
《参考図書等》   168
《さくいん》   175

 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,650円(本体価格1,500円+税150円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 下根子桜(1/21、ヒメオドリ... | トップ | 下根子桜(1/21、ハコベ) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

『宮沢賢治の声 啜り泣きと狂気』より」カテゴリの最新記事