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農村雑誌『家の光』と賢治(「同時代性」)

2015-04-18 09:00:00 | 大正15年の賢治
《『家の光 創刊号』表紙】<『家の光〔復刻版〕』(不二出版)より>》
農村雑誌『家の光』
 井上寿一氏は、『戦前昭和の社会』において農村雑誌『家の光』について、
 農村は疲弊していた。欧州大戦後の戦争景気の反動不況が都市よりも農村に深刻な打撃を与えたからである。農村雑誌の『家の光』が創刊されたのは、このような状況のなかだった。創刊号(一九二五(大正一四)年)のカラーの表紙はのどかな田園風景である。農婦が菖蒲の花を活けている。遠くには鯉のぼりが泳いでいる。
 このような明るい表紙とは異なって、誌面には危機感が溢れていた。「本紙記者」は言う。「去る大正十年頃から急に農村問題が社会問題の中心となって……猫も杓子も口にし、筆にしなければならぬ大きな問題となった」。「今日迄の農村振興は何も空鉄砲である、不渡手形である。そこで何とか局面を転回して農民の実生活方面から根本の改造」をしなければならない。
             <『戦前昭和の社会』(井上寿一著、講談社現代新書)117p~より>
というようなことなどを論じていた。
 一方、板垣邦子氏は『昭和戦前・戦中期の農村生活』において、大正14年~昭和3年頃の『家の光』に関して、
 農村文化建設の提唱
 創刊号以降昭和三年頃までの『家の光』は、芸術・娯楽を主な内容とした農村文化問題に力を入れている。この時期、この問題の占める比重は大きく、農民文学・農民美術・農民劇に関する記事は、農民芸術運動を盛り上げようとする意欲を感じさせる。家庭雑誌といいながら、農村青年層を対象とした文芸雑誌的傾向さえある。
 農村の経済的不振、青年男女の都会集中、小作争議の頻発にみられる農村良風俗の荒廃を憂うという立場から、『家の光』は農村文化の建設を提唱する。その趣旨は、農村が独自の立場を堅持し、なおかつ現代文明を摂取して農村にふさわしい文化を建設し、生活の豊かさをとりもどさねばならないというものである。退廃に堕した都会文化への憧憬を捨て、健全な農村文化を築くべきであるという。
            <『昭和戦前・戦中期の農村生活』(板垣邦子著、三嶺書房)18p~>
と論じていた。そして、実際に当時の雑誌『家の光』を開いて見てみれば、このお二方の言うとおりであり、
 雑誌『家の光』は当時すこぶる疲弊していた農村を憂い、農民芸術運動を盛り上げようという意図で農民劇等に関する記事を載せたりしながら、農村文化の建設を提唱していた。……①
と言えそうだ。そして、板垣氏が同書で
 農民芸術の振興
 芸術については農民文学・農民劇・農民美術に関する記事が多く、寄稿者や座談会出席者として犬田卯、佐伯郁郎、白鳥省吾、中村星湖、渋谷栄一ら当時活発な運動を展開していた農民文芸会のメンバーがしばしば登場し、なかでも犬田卯の活躍がめだっている。
            <『昭和戦前・戦中期の農村生活』(板垣邦子著、三嶺書房)20p~>
とも述べているとおり、農民芸術に関する『家の光』における寄稿者等には犬田卯、佐伯郁郎、白鳥省吾等がいて、中でも犬田卯の活躍が目立っていることはこれまた当時の雑誌『家の光』を見てみれば直ぐにわかる。

「同時代性」
 そして、そもそも、時代が大正に入るとおびただしい数の雑誌が多くの大衆芸術を生み、「民衆芸術論」をより一層発展せしめた。農民文学運動はそのような時代背景の下に発生していた(『犬田卯の思想と文学』(安藤義道著、筑波書林)49p~より)という。例えば、当時は白鳥省吾を始めとする「民衆詩派」(ただし世間は白鳥省吾を農民詩人と見ていた節もある)が大活躍していた時代であり、犬田等が取り組んだ「農民文芸運動」の一環として佐伯郁郎が先頭に立って「農民詩」を啓蒙したり、渋谷定輔は農民詩集『野良に叫ぶ』を世に出して反響を巻き起こしていた時代でもある。
 つまり、この時代は「民衆芸術」が勃興し、それに伴って「農民文学運動」や「農民芸術運動」も盛り上がっていった。それらは、第一次世界大戦後の不況により農村は経済的な打撃を受けた上に、青年男女の都会集中て農村は荒廃する一方だったから、板垣氏の言うとおり、退廃に堕した都会文化への憧憬を捨てて健全な農村文化を築くべく盛り上がった運動だったということなのだろう。そしてそのような運動を進めていったのが例えば「農民文芸会」であり雑誌『家の光』であった、となるのだろう。
 こうしてみると、賢治の『農民芸術概論綱要』は賢治の全くのオリジナルであったというわけではなくて、「同時代性」から生まれた一つの産物であり、当時澎湃として起こっていた「農民文学運動」や「農民芸術運動」を体系化・理論化しようとした一つが「農民文芸会」の『農民文芸十六講』であり、賢治の『農民芸術概論綱要』もその一つであると見ることができるから、犬田卯、佐伯郁郎、「農民文芸会」、賢治等は皆強い相似性があると言える。
 ただし同時代とは言え、『家の光』は1925年(大正14年)4月に創刊されているから、賢治が下根子桜に移り住む1年前に既に創刊されていたことになる。また、「農民文芸研究会」は大正13年に結成されて犬田卯が中心となって活動していたし、同会が「農民文芸会」と改称され、同会の『農民文芸十六講』が出版されたのは大正15年10月である。
 とまれ、賢治が大正15年4月1日付『岩手日報』紙面上で述べたところの、
(1) 現代の農村は経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へらる。
(2) そこで東京と仙台の大學あたりで自分の不足であった『農村経済』について少し研究したい。
(3) 半年ぐらゐは花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたい。
(4) ために、幻燈會はまい週のやうに開さいする。
(5) レコードコンサートも月一囘位もよほしたい。
(6) 同志二十名ばかりいる。
(7) 自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないたい。
は皆、前掲の〝①〟に対応することであり、その「同時代性」が賢治に言わしめたことであると言えそうだし、当時は賢治だけでなく多くの人々や多くの組織が似たような活動や実践を行ったり、行おうとしていたということになるだろう。その代表的な人物の中に例えば賢治、犬田、佐伯、山形鼎望月桂土田杏村等がおり、雑誌『家の光』があり、松田甚次郎の『最上共働村塾』、千葉恭の『研郷会』、土田の『信濃自由大学』そして賢治の『羅須地人協会』等があったということなのだろう。

現時点での結論
 どうやら、賢治はオリジナリティを大事にしかったから件の「訪問ドタキャン事件」を引き起こしてしまったというこがあり得るし、
 賢治は、白鳥・犬田・佐伯の三人が大正15年7月26日に下根子桜を訪問することを承諾していたが、直前に一方的に反古にした。
 そして、それは『農民芸術概論綱要』が絡んでいた。
ということだけはほぼ確かであろう。なぜなら、賢治はこの時『彼等に會ふのは私は心をにごすことになる』とそのドタキャンの理由を述べていたと言えるからである。
 なお、このような断り方は、
 もし無理に言うならば、いろんな計画を立てても、二、三日するとすつかり忘れてしまつたやうに、また別の新しい計画を立てたりするので、こちらはポカンとさせられるようなことはあつた。
              <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)の「前がき」より>
という関登久也の述懐と符合する。まさに、「不羈奔放」な賢治の面目躍如といったところなのだろう。

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