《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
では最後に、賢治が昭和3年8月10日下根子桜から実家へ戻った件について述べてそろそろ終わりにしたい。このことについての経緯は、
心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
と巷間言われてきたので、これが通説だと私はかつて認識していた。ところが、先の『阿部晁の家政日誌』等によって当時の花巻の天気や気温を、更には賢治の健康状態に関する証言等を調べてみると、この通説を否定するものが多かったので、どうやらこれもおかしいということに気付いた。一方、賢治が教え子澤里武治に宛てた同年9月23日付書簡(243)には、
やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
〈『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡』(筑摩書房)〉演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
と書かれている。しかし「すっかりすがすがしくなりました」ということであれば、病気のために実家に戻って病臥していたといわれていた賢治なのだから、普通は「そろそろ下根子桜に戻って以前のような営為を再開したい」と伝えたであろうと思いきやそうではなくて、「演習が終るころ」まではそこに戻らないと澤里に伝えていたからこれもまた常識的に考えておかしいことだということに気付いた。同時に、実家に戻っていた最大の理由は「演習」のせいであって病気ではなかった、ということをこの書簡は示唆しているとも受け取れる。
ならば、そのような「演習」とは一体何のことだろうかと私は長らく気になっていた。それが、
労農党は昭和三年四月、日本共産党の外郭団体とみなされて解散命令を受けた。…(筆者略)…この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。
〈『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)〉という記述に偶々出くわして、「演習」とはこの「陸軍大演習」のことだと直感した。そこで、他の資料等も調べてみたところ、賢治の教え子小原忠も論考「ポラーノの広場とポランの広場」の中で、
昭和三年は岩手県下に大演習が行われ行幸されることもあって、この年は所謂社会主義者は一斉に取調べを受けた。羅須地人協会のような穏健な集会すらチェックされる今では到底考えられない時代であった。
〈『賢治研究39号』(宮沢賢治研究会)〉と述べていた<*1>。どうやら、先の私の直感は正しかったようだ。
また周知のように、賢治は当時労農党のシンパであったと父政次郎が証言している。そして、この時の「アカ狩り」によってその労農党員の、賢治と交換授業をしたことがある川村尚三、賢治と親交のあった青年八重樫賢師が共に検束処分を受けたという。あげくその八重樫は北海道は函館へ、賢治のことをよく知っている同党の小館長右衛門は小樽へと同年8月にそれぞれ追われたともいう。
しかも高杉一郎著『極光のかげに』(岩波文庫)によれば、「シベリアの捕虜収容所で高杉が将校から尋問を受けた際に、その将校が、賢治は啄木に勝るとも劣らない「アナーキスト?」と認識していた」と言えるくらいだから、この時の「アカ狩り」の際に賢治も警察からの強い圧力が避けられなかったであろう。それは、賢治が実家に戻った時期が同年のその8月であったことからも窺える。
そこへもってきてあの人間機関車浅沼稲次郎でさえも、当時、早稲田警察の特高から『田舎へ帰っておとなしくしてなきゃ検束する』と言い渡されてしょんぼり故郷三宅島へ帰ったと、「私の履歴書」の中で述懐していたことを偶然知った私は、次のような
〈仮説〉賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻って謹慎をしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に下根子桜から撤退し、実家で自宅謹慎していた。
を定立すれば、全てのことがすんなりと説明できることに気付いた。そしてそれを裏付けてくれる最たるものが、先に揚げた澤里宛賢治書簡であり、「演習が終るころ」までは戻らないと澤里に伝えているその「演習」と、その時の「陸軍大演習」とは時期的にピッタリと重なっていることだ。その上、この反例は一つも見つからなかったから仮説の検証がなされたことになる。よって今後その反例が見つからない限りは、昭和3年8月に賢治が実家に戻った主たる理由は体調が悪かったからというよりは、「陸軍大演習」を前にして行われた凄まじい「アカ狩り」への対処のためだったと、そして、賢治は重病だということにして実家にて「自宅謹慎」していたというのが「下根子桜撤退」の真相だったとしてよいことになった。
こうして、「羅須地人協会時代」は昭和3年8月10日に実質的にその終焉を迎えたと言えるだろう。また、もちろん、「下根子桜撤退」現通説にはかなりの危うさがあることがわかった。
なお、この項については、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』、『羅須地人協会の終焉―その真実―』において実証的に考察し、詳述してある。
<*1:投稿者註> 小原忠は論考「ポラーノの広場とポランの広場」において、
四、警察署
次の次の日、警察署から出頭命令がキューストに来る。その日付は
一九二七年六月廿九日
とある。昭和二年のことである。
私は丁度この日付の頃「桜」に賢治の家を訪れたことがある。家には居られず川原の畑で草取りをしていた。この日はどういうわけか非常に機嫌が悪く興奮していた。こんな取り乱した姿を後にも先にも見たことがない。私の用向きに対しては耳を貸さず「いま、それどころの話ではないんだ。私は警察に引っ張られるかもしれない。」と言った。私は、それは単なる尋問なのか勾留なのかと問い返すこともできないくらいにものすごい剣幕であった。
<『賢治研究39号』(宮沢賢治研究会)>次の次の日、警察署から出頭命令がキューストに来る。その日付は
一九二七年六月廿九日
とある。昭和二年のことである。
私は丁度この日付の頃「桜」に賢治の家を訪れたことがある。家には居られず川原の畑で草取りをしていた。この日はどういうわけか非常に機嫌が悪く興奮していた。こんな取り乱した姿を後にも先にも見たことがない。私の用向きに対しては耳を貸さず「いま、それどころの話ではないんだ。私は警察に引っ張られるかもしれない。」と言った。私は、それは単なる尋問なのか勾留なのかと問い返すこともできないくらいにものすごい剣幕であった。
とも述べている。
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守 電話 0198-24-9813☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)
なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。
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