《稗貫の稲田水鏡》(平成29年5月19日撮影)
⑵ 貧農の食事の実態では今回は、佐々木多喜雄氏の論考『「宮沢賢治「雨ニモマケズ」小私考-「一日ニ玄米四合」考-』の中の「玄米四合の意味 ⑵ 貧農の食事の実態」を紹介させていただく。
同氏はまず、小作農などの貧農のとされる人々の当時の実態についてこう述べている。
多くの小作農は稲を栽培しているといっても面積は小さく、その収穫物のコメは他の雑穀より高く売れる貴重な換金作物で、借金の返済そして日用品購入のため、その多くは換金と高額な小作料の支払いのために消えていった。
〈『北農 第73巻第2号』(北農会2006.4)74p〉そもそも当時の岩手の場合、小作農や自小作農などの割合はどうだったのかというと、以前〝大正末・昭和初頭の岩手県の自小作農家戸数の割合〟で報告したように、大正15年の場合の全農家に対する割合は、
小作農家 40%
自小作農家 19%
計 59%
<『岩手県農業史』(森嘉兵衛監修、岩手県)297p>
であり、(自作+自小作)農家は約6割であったという。
そして、当時の岩手県の小作料といえば以前〝「羅須地人協会時代」の稲作指導の実際〟で報告したとおりで、『大正十年府県別小作慣行調査集成』―農林省調査・土屋喬雄編―によると、
収穫高に対する現物納の小作料の割合は、
高収穫田 56%
普通収穫田 54%
低収穫田 47%
<『復刻「濁酒に関する調査(第一報」)』(センダート賢治の会)より> 高収穫田 56%
普通収穫田 54%
低収穫田 47%
ということであり、当時の小作料は約5割程度であったと言えるであろう。つまり、当時の大半の農家は小作をしており、しかも小作料は約5割もの高負担であり、生活が苦しかったであろうことは火を見るよりも明らかだ。
続けて佐々木氏は、これらの農家=貧農の食事の実態を教えてくれる。
自家用としてわずかに残されたコメは貴重で、少量の米にムギ、ヒエ、アワなどの雑穀にダイコンやその葉、イモなどを混ぜて増量したものがカデ飯で、白米のめし銀シャリは、正月や祭などのお祝いのいわゆるハレの日のみの年によって数回のことであった。
〈『北農 第73巻第2号』(北農会2006.4)74p〉この文章を読み、その実態については薄々私も想像してはいたが、農業の専門家佐々木氏故にその実態を知悉しているであろうことから、当時の貧農の食事の実態がこれでよく理解できた。
よって、これまた佐々木氏の
貧農などの主食の実態と賢治の七部搗き四合とでは、比較にならない雲泥の差で、粗食どころか恵まれた食の一語に尽きると言えよう。
<同75p>という言説も、合点できたし、自分のとんでもない誤解を恥じ入った。「賢治の七部搗き四合」は賢治の粗食の象徴かと思っていたならば、当時の貧農等の食事と比べればはるかに恵まれていたのだということを私は知ったからだ。さらには、「賢治の七部搗き」四合は玄米のそれではなく、しかもそれは精米された米だったのだからなおさらにだ。
さて、私自身は「雨ニモマケズ」の中の、
風ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ……①
のここまでは、基本的には賢治とすれば下根子桜でできなかったり、そうでなかったり、はたまたそうしなかったことばかりであったということを、この頃はやっと私は受け容れることができるようになったのだが、「羅須地人協会時代」の賢治は玄米食をしていたという誤解からはなかなか抜けきれずにいる。風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ……①
しかし実態はそうではなくて、同時代の賢治は玄米食などはしていなかったし、少なくともある割合までは精白した米を食べていたのであり、それは当時の小作をしている大半の農家の実態と比べれば粗食でも何でもなく、相対的にはかなり恵まれた食事であった。また、「雨ニモマケズ」の中の「一日に玄米四合」はかなりの美食であったということになりそうだ。
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