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222 水騒動とナミダヲナガシ

     【↑Fig.1 「夜の警戒」(大正15年7月15日付岩手日報より)】

<例その2>
 次は新聞報道を通じて賢治はヒデリ(旱魃)のときに涙したに違いないということを論じてみたい。

 賢治が花巻農学校を辞して下根子桜で独居自炊生活を始めた大正15年、紫波地方は未曾有のヒデリ(旱魃)が続いたというから大正15年の岩手日報の新聞記事を調べてみた。

 岩手日報はそれぞれ次のようなことを報道している。
<6月8日付 岩手日報>
 稗貫、紫波の両郡とも旱魃が続き早くも水騒動が勃発する情勢を呈して来た。警察は一昨年のような大騒動を未然に防止すべく努力してゐるが、葛丸川や滝名川は非常に渇水していて今後10日間も雨が降らなかつたら名物の水喧嘩が起こる形勢だ。
 つまり、報道に依れば
【Fig.2 滝名川・葛丸川】

    <『昭和10年岩手県全図』(和楽路屋発行)より抜粋>
流域にある紫波郡の志和、水分、赤石、古館や稗貫郡の八幡、好地、湯本など一帯は旱になると毎年のようにしばしば水騒動が、特に大正13年は大騒動があったことが記事から解る。

<6月9日付 岩手日報>
 紫波郡志和滝名川の分水問題は日増しに悪化しつつあるので、7日11時から本流と支流の分岐点で分水協議会を開催、灌漑水の分配については安倍紫波郡長に無条件で一任することにし、分水個所に立ち入ったものは厳罰に処すこととした。何時水喧嘩が勃発せぬとも限らないので7日からは警官を派遣して徹宵警戒をしている。渇水は近年稀なほどでここ5日間雨が降らなければ一昨年のような大騒動を引き起こす形勢にあるので識者は憂慮している。
 如何にこの当時の分水問題が深刻なものであったかが解る。警官が張り付いて徹夜で警戒せねば水喧嘩が防げなかったのだ。

<6月10日付 岩手日報>
 水分、古館、日詰、志和、赤石各村はこの分では全く田植えが出来ない。紫波郡と稗貫郡の北上川の西側の大半は本年もまた旱のため田植えは不可能の状態にあり、わけても滝名川の流水を灌漑用水とする水分、古館、日詰、志和、赤石各村の計1,300町歩は1割位しか田植えが終わっていない。もし今後2週間以内に雨が降らなければ本年もまた田植えが全く不可能である。

<6月16日付 岩手日報>
 稗貫郡葛丸川流域の八幡宮野目両村及び好地村の一部は灌漑水不足のため田植え未了の個所があるために、好地新井田止め付近に於て両村民の間に分水争ひが勃発しそうな形勢があり刻々人員も増加して150余名に達した。花巻本署から数名が出向き鎮圧につとめたとき雨模様になつたので、分水に関する具体的協議は遂げずに解散した。
 それこそこの場所は地理的に花巻の”北”に位置しているから、まさに賢治は
   北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ということで早速そこに出掛けて行って
   ツマラナイカラヤメロトイヒ
と諭して、一筋縄では解決できないこの水騒動をなんとか仲裁・解決してやりたかったことであろう。

 もちろん農民たちもお天気任せだけではなく、動力による揚水も始めているという報道があった。
<6月19日付 岩手日報>
 旱が続き滝名川流域の赤石、古館両村では未だ三分の一位しか田植が出来ずにいる。こんな旱魃にもかかわらず従来のように水喧嘩を見ないのは、結局争つたところであるだけの灌漑用水しかないという自覚からであろう。そこで、一部では自発的に動力で北上川から引水して田植えを始めている。
 志和の一有力者の話では明年になると鹿妻堰は紫波郡水分古館赤石の各村まで延長されるので、今まで滝名川の水を灌漑水に使用していた数ヶ村はその恩恵を受け、従来のような水不足に苦しむことはなくなるだろうとのことである。

 この記事からは、大正15年の旱には冷静に対処している紫波郡の農民の姿勢に感心すると共に、松田甚次郎が明けて昭和2年に見舞うほどの過酷な惨状は起こりそうにないような気もするのだが・・・

 ところがそれは糠喜びだった。
<6月23日付 岩手日報>
 赤石村では極度の灌漑用水不足から500町歩の内400町歩は田植えが不能状態にある。赤石村においては北上川からの電力揚水機の工事を急いでいる。
 紫波郡葛丸川及び滝名川流域の水田は全く田植えが出来ずにいる。日詰町の約40町歩、水分村の約200町歩、赤石村の200余町歩等計約1,000町歩の紫波の水田はこのまま降雨がなければ今年は田植えが出来ないだろう。

 ということは、赤石村に関して言えば
(1) 全水田は500町歩
(2) 6月22日時点で田植え未了水田が8割の400町歩
(3) 降雨がなければ結局田植えが出来ない水田は200余町歩
ということになる。
 したがって、電力による上水がなされたとしてもこのまま旱が続けば、赤石村の水田の4割強が田植えが出来ないことになるし、たとい電力上水によって田植えが出来たとしても1反当たり20円の経費を支払わなければならないという報道もあった。
 大正13年の不作に引き続いての大正15年のこの旱、もしこのまま降雨がなければ赤石村の農民の生活はますます困窮してしまうことになる。

 そして、私が一番驚いたのは次の報道である。
【Fig.3 大正15年7月15日付岩手日報】

 交代で必死となつて夜の警戒……(写真は紫波郡志和村の滝名川の分水地点の物々しい夜の見張りであるが今日迄にこうした警戒が三十八日に及んで居る)
という写真の説明がしてあった。
 そして続けて次のような記事
 旱害からこの惨状
    せめて田一枚でもと一族総出で水運びに必死の家最後の策に
       泣きの涙で愛馬を売る

十三日得能知事一行は紫波郡内の旱害状況を視察して何れもその惨たんたる状況をまのあたり眺めて、ただ驚くほかなかった、今かん害惨話といつた二、三を紹介する
 赤石村では二万円の巨費を投じて北上から上水してゐるが十三日午前、同村藤尾新太郎(二〇)は動力使用中高圧線に触れ無惨にも感電即死
 志和村高橋某の一家族は毎日のかん天に水田が亀裂が生じ稲が枯れ死するのでせめて、田三枚(約一反)でもといつて大きな井戸を掘り昼夜兼行で水をかけてゐる始末
 不動村の某は飼ってゐたぶた数頭をうりはなしたがこの酷暑で蔬菜も育たぬので日に日に生活に困窮して只一頭の愛馬をうりはなさうと相談中とか
このほかまだまだあるようであるが農村が次第次第に疲弊して行くので娘まで売るなどの悲惨事はできかねない状態だ

が続いていた。

 かくの如きものものしい連夜の警戒の有り様と、厳しい緊張を伴う寝ずの見張り番を三十八日も続けていたという事実をこの報道で知り、如何に農民にとって”夜の水見張り”が辛くて空しいものであったかということが容易に理解出来た。 
 そしてこの報道から旱害の惨状を知り、得能知事一行同様ただただ驚くしかほかなかい。

 以上幾つかの新聞報道を見て、当時の紫波郡下ではヒデリ(旱)が続いた場合、灌漑用水確保のために如何に農家は辛酸を舐めたかが解る。特に、1ヶ月以上もの寝ずの見張り番を続けたり、一族総出で水運びに必死だったりで
  農民は皆んなヒデリに涙していた
はずである。
 もちろん、賢治は賢治でこれらの新聞報道を見たり、実際地元で起こっていたであろう旱害被害を目の当たりにし、あるいは隣の紫波郡の旱害の噂を聞いたりして心の中でさぞかし涙を流し、切に慈雨を願っていたに違いない。

 というわけで、賢治は大正15年の旱魃に関するこれらのような新聞報道を見ておそらく
   ヒデリノトキハナミダヲナガシ
ていたはずだから、今回の<例その2>についてはこれで了いにしたい。

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