宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

198 盛岡測候所

2009年10月03日 | Weblog
     <『賢治と盛岡』(牧野 立雄著、賢治と盛岡刊行委員会)>

 『賢治と盛岡』という著書の 「三十五、縄文の風 賢治と測候所」の中に次のような部分がある。
 その山頂に盛岡測候所(現 盛岡地方気象台)ができたのは、関東大震災の当日、大正十二年九月一日で、初代所長の福井規矩三(一八七一~一九五〇)のエッセイ「測候所と宮澤君」によれば、そのころ花巻で農学校に勤務していた賢治が翌年七月末頃から測候所に姿を見せるようになったという。
 私は、山岸一丁目に住んでいた頃偶然にも福井氏の長女から駐車場を借り、月末になると山賀橋の近くのお宅へ伺った。「宮澤さんは、測候所だけでなく家にもおいでになったことがあります。宮澤さんから頂戴した詩集(『春と修羅』)を父は大事にしていました」ということであった。
 実物をみせてもらうと見返しには賢治ではなく「松田甚次郎」という署名があった。昭和十一年十一月に「雨ニモマケズ」の詩碑が建立されたときに福井氏も関係者として出席し、そこでサインをしてもらったという。

   <『賢治と盛岡』(牧野 立雄著、賢治と盛岡刊行委員会)より>
                      【『春と修羅』】

          <『新文芸読本 宮澤賢治』(河出書房新社)より>

 この文章の内容で次の二点が気になった。
(1) 盛岡測候所が出来たのは大正12年9月1日であること。
(2) 昭和11年11月にも松田甚次郎は花巻を訪れていたかも知れないことになる。

 まず、(1)について
 以前、”水沢緯度観測所”で触れた中に次のような二点がある。
ア 賢治の詩『測候所』が詠まれたのは1924(大正13)年4月6日である。
イ 『奥州宇宙遊学館』の展示によれば、賢治がこの詩を書いた当時、測候所といえば岩手県内では宮古にしかなかった。しかし、その当時水沢には”水沢緯度観測所”があり、実質的には測候所の役目もしていた。したがって、賢治の詩『測候所』の測候所とは”水沢緯度観測所”と考えられる。

 とすれば前掲の(1)より、盛岡測候所が出来たのは賢治の詩『測候所』が詠まれる以前であったと言えそうだ。
 実際、盛岡地方気象台のホームページを見ると
   盛岡地方気象台の沿革
大正12.9.1 現在地において、岩手県盛岡測候所として創設され業務を開始。

とあるから、盛岡測候所が出来たのは1923(大正12)年9月1日であることは確実であろう。
【盛岡観測所(盛岡測候所)】

   <『賢治と盛岡』(牧野 立雄著、賢治と盛岡刊行委員会)より>
 したがって、賢治の詩『測候所』が詠まれた時点1924年では、宮古の測候所、水沢緯度観測所、盛岡測候所の3測候所がいずれも業務を行っていたことになるから、この詩のモデルは”水沢緯度観測所”だけでなく、”盛岡測候所”の可能性もあることがこれで分かった。
 とすれば、シャーマン山の候補は早池峰山だけでなく岩手山の可能性も十分あり得るのではなかろうか。

 次は(2)について
 前述の福井規矩三のエッセイ「測候所と宮澤君」とは、『宮澤賢治研究』の中の「測候所と宮澤君」のことであり、その中身は次のようなものである。
 大正十三年は岩手県はひどい旱害であったが、その年の七月の末頃、あの君にはじめてお目にかかつた。土用の入りに日じやつたが、別に紹介状もなしにやつて来られた。服装は背広で、それから屡々お目にかかつたが、いつも洋服であつたやうに思ふ。ごく質素な方で、身の廻りのことなどは頭になかつたお方と思ふ。そのときも帰つてからていねいなお手紙をくだされたが、なくしてしまつた。大正十三年の旱天は、岩手県では近ごろではなかつた旱害の記録で、以前は何時でも水が余つてゐたので、水不足で作付けが出来ないといふことはなかつた。大正七年にもちよいとした小規模な旱天があるたが、大正十三年のは、とてもきつかつた。雨が不足で一般に植え付けが困難であつたが、ことに胆沢郡永岡付近が水廻りが悪かつた。花巻方面はさほどでもなかつたが、後も雨が不足で作物が困難になつて来てをつた。昔から岩手県では旱魃に凶作なしといふて、多雨冷温の時は凶作が多いが、旱天には凶作がない。あの君としては、水不足が気象の方から、どういふ変化を示すものであるといふことを専門家から聴き、盛岡測候所の記録を調べて、どういふ対策を樹てたらよいかといふことに頭を悩まされたことと思ふ。七月の末の雨の降り様について、いままでの降雨量や年々の雨の降った日取りなどを聴き、調べて帰られた。昭和二年はまた非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった。そのときもあの君はやつて来られていろいろと話しまた調べて帰られた。(中略)大正十四年の或日おいでになつたときに、「春と修羅」に名刺を入れて、測候所からの帰り道こそつと家へ置いて行つた。(以下略)
      <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)>
 したがって、このエッセーによれば福井が賢治から詩集「春と修羅」をもらったのは1925(大正14)年ということになる。
 そこで気になるのが「春と修羅」の見返しに松田甚次郎のサインがあるということである。前述したように、『賢治と盛岡』によれば
 実物をみせてもらうと見返しには賢治ではなく「松田甚次郎」という署名があった。昭和十一年十一月に「雨ニモマケズ」の詩碑が建立されたときに福井氏も関係者として出席し、そこでサインをしてもらったという。
ということである。昭和11年11月にこのようにして甚次郎がサインしたというのであれば、甚次郎は昭和11年に来花(花巻に来ることの意)していたことになる。
 しかし、松田甚次郎の年譜によればこの年に甚次郎が来花したという記録はないし、空前の?ベストセラー『土に叫ぶ』が出版されたのは2年後の昭和13年である。もし甚次郎が「雨ニモマケズ」の詩碑が建立された11年11月に来花していたとしても、甚次郎の性格からしてこの時点で「春と修羅」の見返しにサインをするという”大それたこと”はしないのではなかろうか。まして、盛岡測候所の初代所長の福井が当時は殆ど無名に近い甚次郎にサインを頼むということはなかったのではなかろうか。
 私が思うにおそらく、甚次郎がサインをする機会として考えられる時期は、昭和13年5月に「土に叫ぶ」を出版して一躍ベストセラー作家となって全国に名をはせた甚次郎が、昭和14年3月に花巻の南城にやって来て”南城振興共働村塾”を開塾した際とかではなかろうか。この甚次郎が来花する際の新聞報道は来花する前から華々しかったとも聞いている。そこで、甚次郎が賢治を尊崇していることを福井は新聞報道等で知っていて、南城振興共働村塾に関係者として出席した福井がベストセラー作家甚次郎にサインを頼んだという辺りが妥当ではなかろうか、と推測する。
 したがって私の現時点での結論は次のようになる。
 松田甚次郎は昭和11年に来花したかも知れない。しかし、その折りに福井規矩三が宮澤賢治からもらって所有していた詩集「春と修羅」に松田甚次郎がサインしたことはなかろう。

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