みちのくの山野草

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佐々木多喜雄氏の論考から学ぶ(#1)

2017-09-07 10:00:00 | 賢治の稲作指導
《稗貫の稲田水鏡》(平成29年5月19日撮影)
 『「宮沢賢治小私考-賢治「農聖伝説」考-』シリーズ入手
 以前、〝賢治関連七不思議(賢治の稲作指導、#8)〟という投稿において私は、
 賢治が羅須地人協会でやったことはそれほどのことでもなかったのかもしれない、ということをもはや否定しきれない。
という結論に達したと述べた。
 併せて、
 この件に関しては、この度、佐々木多喜雄氏の鋭い論考「宮沢賢治小私考-賢治「農聖伝説」考-」(「北農」所収)があるということを知った。その内容の一部は知ったのだが、それを全部を読みたいものだと思って今入手方法を探っている。
とも述べた。
 そしてその後、同論考
1 『「宮沢賢治小私考-賢治「農聖伝説」考-』〈北農 第74巻第4号(北農会2007.10)所収〉
2 『「宮沢賢治小私考-賢治「農聖伝説」考-<承前①>』〈北農 第75巻第1号(北農会2008.1)所収〉
3 『「宮沢賢治小私考-賢治「農聖伝説」考-<承前②>』〈北農 第75巻第2号(北農会2008.4)所収〉
4 『「宮沢賢治小私考-賢治「農聖伝説」考-<承前③>』〈北農 第75巻第3号(北農会2008.7)所収〉
5 『「宮沢賢治小私考-賢治「農聖伝説」考-<承前④>』〈北農 第75巻第4号(北農会2008.10)所収〉
6 『「宮沢賢治小私考-賢治「農聖伝説」考-<承前⑤>』〈北農 第76巻第1号(北農会2009.1)所収〉
を「北農会」様のご親切によって全て入手できたのだが、これらを通読してみた結果、「通説」とは違ってしまってまことに残念なことになってしまったのだが、
 賢治が羅須地人協会でやったことはそれほどのことでもなかった。
ということを受け容れねばならぬという覚悟をした。

 そこで、この佐々木氏の同論考等を今後順次紹介させてもらおうと思っているのだが、今回はその中でとりわけなるほどなと思ったことの一つを紹介したい。それは、同論考の<承前⑤>の中の、
 「農聖」と讃えられる程の人物であるなら、生前ないし没後に神社にまつられるとか、頌徳碑や顕彰碑などが建立されて、その事跡をしのび後世に伝えられることなどが、一般的に行われることが多いと考えられる。…(投稿者略)…
 一方賢治については、文学作品碑は各地に数多いが、農業の事跡を記念した神社や祠および頌徳碑などは一つもない。これは、すでにみた様に、後世に残し伝える程の農業上の事跡が無いことから当然のことと言えよう。
              <『北農』第76巻第1号(北農会、平成21年1月1日発行)98p~>
という指摘である。同氏はかつて北海道立上川農業試験場長も勤められた方で、農業の専門家でなおかつこの件に関しては詳らかに調べていることが容易に読み取れる論考であった。専門家の立場からすればこの指摘は当然のことなのかもしれないが、素人の私からすれば全く思いの及ばなかったことだったので、流石と感じ入った一つがこの指摘だった。私などはこのような視点が全くなかったことを恥じながら、やはり農業についての専門家の視点は鋭いものだと唯々感心するばかりだった。

 たしかに、(以前一度投稿した内容ではあるのだが)そのような顕彰碑等は賢治には一切ない。そしてその一方で、賢治以外のものなら花巻にもある。それは例えば、島善鄰顕彰碑であり花巻市高木に立っている。花巻出身で『リンゴ博士』とも呼ばれる島の顕彰碑であり、なおか島の顕彰式典は毎年のように行われている。それも何と、いわゆる賢治の誕生日(前後の事情から二七日出生が正しいとされているという)と同じ「8月27日」にである。
 あるいはまた、田中縫次郎の顕彰碑が花巻市宮野目上似内の八坂神社に立っている。この人物田中については、『宮野目小史』によれば、
 (花巻市の宮野目地区は)このような水不足の不安を抱えての米作りに代わる作目を志向して、瀬川の最下流の上似内、下似内は、特に水源が乏しいことから、以前から取り組んでいた養蚕を積極的に推進し、活路を求めるため、養蚕技師、田中縫次郎氏(埼玉県)の献身的指導を得て、大きな成果を上げるなど苦心しながらも、農業を維持したのである。この当時の養蚕事業がこの地区で、それから昭和30年頃まで、一部の農家が継続して営まれていた。因みに田中氏の指導と農民の努力にによって、大正3年収繭高3600㎏程度であったが、昭和7年には、約8200㎏と2倍以上に伸張した。この養蚕振興に尽力した田中氏を顕彰する「豊蚕之碑」が上似内八坂神社境内に建立されている。
           <『宮野目小史』(花巻市宮野目地域振興協議会)20pより>
ということである。そしてこの裏碑面を見てみると〝大正十四年八月建之〟とあるから、わざわざ埼玉県入間郡から花巻にやって来た田中縫次郎なる人物は、宮野目地区の養蚕業に多大な貢献をした人物であったということがわかる。それも、大正14年の8月時点でこの立派な顕彰碑が立っているということから、賢治が花巻農学校に奉職していた時点で既に、田中縫次郎は地元の人達からとても崇敬されていたということもわかる。
 しかし、島も田中も共に農業の発展のために大いに貢献したわけだが、「農聖」とは尊称されてはいないし、「老農」とさえも言われていない。一方、「農聖」とか「老農」と讃えられている人物で私が真っ先に思い浮かべるのは石川理紀之助である。この人物に関しては以前〝4125 石川理紀之助とは?(#1)〟で投稿したような人物であり、その事跡については〝4185 石川理紀之助を訪ねて(#1)〟~〝4203 石川理紀之助を訪ねて(#4、草木谷へ)〟で報告した通りであり、その時私も、
    「農聖」というカテゴリーで見た場合には、賢治は石川理紀之助に遙かに及ばない。
と正直に感想を述べたことを思い出す。それは、石川の実践を識れば誰もが「農聖」であることに異論を唱えにくいだろうと思ったからだ。なお、もちろん石川の顕彰碑は立っている。

 したがって、ここまで約10年間程の賢治関連の検証作業を通じて、冒頭に述べたように
 賢治が羅須地人協会でやったことはそれほどのことでもなかったのかもしれない、ということをもはや否定しきれない。
という結論に私は達していた矢先でもあったので、この佐々木多喜雄氏の前掲の指摘、
    賢治には「後世に残し伝える程の農業上の事跡が無い」
を知り、もはやこれで決定的だと判断できたのだった。そして、「通説」とは違ってしまって私はかなり戸惑うのだが、
 賢治が羅須地人協会でやったことはそれほどのことでもなかった。
ということを受け容れねばならぬという覚悟をした。

 そして同時に、
 当の賢治自身はなおさら戸惑っているだろう。石川理紀之助などと並び称される程のことを自分はやっていなかったのだからと、おそらくごちているのではなかろうか。
と私は賢治の気持ちを忖度するしかなかった。

 とまれ、同氏の論考は、冷静で客観的でなおかつ実証的なものだったから、私はその説得力に圧倒されっぱなしだった。そして、私が待ち望んでいたものはこれだと覚り、もっともっと同氏の論考から学ばねばと思うのだった。

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