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昭和3年10月の賢治

2015-09-04 08:30:00 | 昭和3年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 では、昭和3年10月分について賢治の営為と詠んだ詩等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみると、
一〇月二四日(水) 菊池武雄あて(書簡244)の中身なしの封筒の裏書きに、「稗貫郡下根子」とあるので、このあたり一時協会へもどったようである。が、再び実家で臥床したことは高橋慶吾あて書簡(245)で見られる。
一〇月三〇日(火) 佐藤二岳(隆房)あてに葉書(書簡244a)二岳作の俳句に対し、賢治が付句を試みたもの。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)より>
のたったこれだけである。なお、詠んだ詩についても前月同様で、8月以降やはり10月の場合も記載がない。

 そこでまずは、書簡の中身等を次に見てみたい。
◇ 244 〔10月24日〕 菊池武雄あて 封書〔用箋ナシ〕
《表》東京市四谷区 四谷第六小学校内 菊池武雄様
《裏》稗貫郡下根子 宮澤賢治
◇ 244a 〔10月30日〕 佐藤隆房あて 葉書
大根のひくには惜しきしげりかな
 稲上げ馬にあきつ飛びつゝ   圭
 或ハ、痩せ土ながら根も四尺あり

膝ついたそがれダリヤや菊盛り
 雪早池峰に二度降りて消え
 或は、町の方にて楽隊の音

湯あがりの肌や羽山に初紅葉
 滝のこなたに邪魔な堂あり
 或は、水禽園の鳥ひとしきり
◇ 245 〔12月21日〕 高橋慶吾あて 封書
《表》向小路 田中様方 高橋慶吾様
《裏》豊沢町 宮沢商会内ニテ 宮沢賢治
拝復
貴簡難有拝誦仕候
貴下献身の高義甚感佩の至に有之何卒御志の達成せられんことを奉祈候
小生名儀の儀は御承知通り当分の小生には農業生産の増殖と甚分外乍ら新なる時代の芸術の方向の探索に全力を挙げ居り右二兎を追て果して一兎を得べきや覚束なき次第この上の杜会事業の能力は当分の小生には全く無之右不悪御諒置奉願候
                               敬具
                              宮沢賢治
  高橋慶吾様
      私信
 追テ皆様ニハ宜敷御鶴声奉願候
  この頃又もや三十八に逆戻り致し床中乱筆御免被成下度候
              <共に『新校本宮澤賢治全集第十五巻 書簡本文篇』(筑摩書房)より>

 したがって、書簡244の中身はわからぬが、賢治の住所が「稗貫郡下根子」となっているということだから、たしかに賢治は澤里武治に「演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。」と伝えたとおりに、一度協会へもどったようではある。そこでそのことを検証しようと思って私はある時桜地人館を訪ねた。そこにはこの
【書簡244a】

             <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)より>
そのものが展示されているからだ。そして、館員の方にこの葉書の表書きを見せていただきたいのですがとお願いしたところ、それでは館長の佐藤進(佐藤隆房の子息)に訊いてみますということでその返事を待っていたところ、展示台に貼り付けてあるので表書きを見ることはできませんという回答であった。もし表書きを見ることができれば、賢治がどこからその葉書を出したかがわかり、その住所が「下根子」とでもなっていれば、「このあたり一時協会へもどったようである」という蓋然性が増すと思ったのだが、表書きを見ることは諦めるしかなかった。言い換えれば、「このあたり一時協会へもどった」とは言い切れない。現時点では、この「244〔10月24日〕菊池武雄あて書簡」以外にその典拠はないからである。ましてその書簡の中身がないということだから尚更にだ。

 最後に、賢治の昭和3年10月分の年譜について述べたいことがもう一つある。それは、『新校本年譜』の一〇月二四日の項の中の「が、再び実家で臥床したことは高橋慶吾あて書簡(245)で見られる」という記述については、私からみればかなり違和感があるということだ。普通このような記述が為されていれば、『新校本年譜』の読者は、
    賢治は昭和3年の10月頃実家で病臥していた。
と理解するだろうが、そのようなことを翌々月の〔12月〕に慶吾に宛てた書簡245で見ることはどこを読んでも私にはできないからだ。たしかに賢治は追伸で「この頃又もや三十八に逆戻り致し床中」としたためてはいるが、この書簡245の日付はあくまでも〔12月21日〕なのであって、この書簡から導かれることは普通の言語感覚からいえば「〔12月〕頃、再び実家で臥床した」ということが言えるのであり、一〇月二四日の項の中の先のこのような記述には無理があろう。
 しかも既に、
 安藤のぶが賢治の付き添い出張看護をしたのは昭和3年12月半ば~明けて1月半ばの〝30日間〟であった。……❺
また、佐藤隆房自身の記述から窺えるその頃の賢治の病状について、
・12月に入る前までは、「療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしました」ということであり、「たいした発熱があるというわけではありませんでした」。
・12月に入ると、「どうにも普通のやうではなくなつてをりました」ということであり、「突然激しい風邪におそわれまして、それを契機として急性肺炎の形となりました」。
ということが実証できたわけだから、それこそこの〔12月21日〕付書簡245の追伸「この頃又もや三十八に逆戻り致し床中乱筆御免被成下度候」はこちらのこれらのことを裏付けていると考えるのが素直な普通の考え方ではなかろうか。

 なお、『岩手県史』には次のような「昭和三年の盛岡大演習」についての記述があり、
 昭和三年の盛岡大演習 昭和三年九月四日・五日弘前歩兵隊三十一聯隊(郷土出身兵より成る)と、盛岡騎兵第三旅団の聯合演習が本県北部であった。これが大演習の前哨戦でもあった。同年十月五日午後、陸軍特別大演習統監のため、天皇陛下がお召列車で盛岡に来着、同六日から同八日にわたる大演習を統監された。その際、県公会堂は大本営に充当され、内丸通りは臨時の板塀で遮断された。天皇は大元帥として演習を統監さ、その他、閑院宮元帥、田中総理大臣、白河陸軍大臣、岡田海軍大臣…(略)…空前の軍事演習となって県民を歓ばした。十月九日には、盛岡高等農林学校において、有資格者五百余名に、御賜饌があり、十月十日御帰京になっている。
                <『岩手県史 第10巻』(岩手県、杜陵印刷)879pより>
ということで、大演習の初日の10月6日に花巻の日居城野で御野立が行われ、「十月十日御帰京になっている」 ということだから、澤里武治に宛てた書簡243に「演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります」としたためた賢治は、「陸軍特別大演習」が終わった10月中旬頃には『新校本年譜』の言うとおり「一時協会へもどった」ということになるのだろうか。

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